第6話:恋人 ― 脈打つ密室と赤い糸の忘却 ― ②
「ドクン!」
空間が、一度大きく、暴力的に収縮した。
もはやそれは「迫る」といった生易しい移動ではない。世界という名の巨大な顎が、二人を咀嚼するために閉じようとしているのだ。
四方の肉壁は、煮えたぎる脂肪のような熱を帯び、ピンク色の粘膜を波打たせて中央へと膨張してくる。使い古された白いソファーは、すでに肉の床にその半分を嚥下され、ひしゃげたスプリングが断末魔のような軋みを上げていた。
「……あはは。うふふ。見て、メルミ。境界線から、あたしの色が消えていく……」
ゆりえは、床に這いつくばったまま、上気した顔で自分の足を見つめた。
膝から下はすでに床の肉と癒着し、皮膚がバターのようにどろりと溶け合っている。自分の骨が部屋の構造材へと編み込まれていく感覚。それは、かつて彼女が最も恐れ、同時に最も渇望した「自分という責任」からの解放だった。
耳元では、吸盤を濡れたゴムから引き剥がすような、ベチャベチャとした不快な吸引音が絶え間なく鳴り響いている。だが、感覚の麻痺したゆりえには、それが祝福の拍手のように心地よく響いていた。
「最高じゃない……? もう、歩かなくていい。誰にも、あたしたちを見つけられないんだよ」
ゆりえが差し出した手は、壁から滴る蜜で蜘蛛の巣のように汚れ、救済を装ってメルミへと伸びた。
そのメルミは、沈み込み始めるソファーの上で、短い四肢を震わせて必死に突っ張っていた。爪が肉の床を抉り、嫌な脂の音を立てる。背中のモヒカンは怒れるハリネズミのように鋭く逆立ち、ゆりえの「溶融」を本能で拒絶していた。
「冗談じゃないわよ! アンタのそのポジティブな幻覚症状、一度専門家に見せた方がいいわよ! ……それとも、脳みそまでその腐った蜂蜜でコーティングされちゃったの!?」
メルミはズルリと鼻水を撒き散らし、捲れ上がった唇の端から剥き出しの歯を震わせた。その顔は、極度のパニックによる絶望的な形相だったが、ゆりえの瞳には、それが歓喜に震え、口角を上げた「笑顔」にしか見えなかった。
「……そんなにお尻を振って笑って。あんたも、これが欲しかったのね。ようやく、あたしたち一つになれる『許可』が下りたのよ」
メルミがお尻を小刻みに振っているのは、死への恐怖による生理的な震えだ。だが、ゆりえはその震えを自分への共鳴だと確信し、溶けかかった腕でメルミの首筋を強く抱き寄せた。
「私はアンタの『一部』という名のゴミ箱に放り込まれる趣味なんてないわ! アンタと一緒に煮込み料理にされるなんて、私の輝かしい犬生最大の汚点よ。せめて香辛料くらい持ってきなさい、この不器用なシェフ!」
「うんうん。……いいからいいから、あたしの脈を聴きなさい」
ゆりえがその紫色の指をメルミの顔に這わせようとした瞬間、メルミの鼻の脇が蛇腹のように深く折り畳まれた。 記憶の海に沈んだ、あの猛々しい「本気の顔」。遊びではない、生存の境界線を守るための牙。
二人の腕を繋ぐ「赤い糸」が、血管のように太くのたうち、ドク、ドク、と暴力的な拍動を始めた。部屋の心拍が糸を伝い、メルミの血をゆりえへ、ゆりえの停滞した狂気をメルミへと、強制的に流し込んでいく。
再びの脈動。
壁が二人の背中に吸い付き、押し潰す。もはや空間には、二人分の悲鳴を収める隙間さえ残されていない。
ゆりえは目を閉じ、メルミの震える鼓動の中に自分の意識を溶かし込もうとした。
自分の心臓がどこにあるのか分からない。メルミの絶望が、自分の肺を膨らませているような、逆転した全能感。自分という「個」が、この肉の海の中に沈み、消滅していく――。
だが。
その白濁した意識の底で、ある「異物」が猛烈な高熱を放った。
「……あ……っ、熱い……!」
がま口だ。
ゆりえが蜜の底に沈めたはずの、あの「硝子の飛礫(棘)」。
蜜の心地よい窒息を、その硝子の棘が、冷酷な「現実の針」としてズタズタに切り裂いていく。掌から立ち昇る熱は、もはやゆりえの意志では抑え込めない「生きた証」となって暴れ回る。
それは、教皇が残した呪い。
「個であり続けろ」「お前のエゴを離すな」という、剥き出しの自意識の焼印。皆が一つに溶け合う幸福を、その硝子の棘が、冷酷に、鋭利に、切り裂いていく。
「いやだ……。せっかく、静かになったのに……。」
ゆりえは歯を食いしばり、がま口を握る手に力を込めた。だが、握れば握るほど、棘は深く肉を焼き、彼女を「ゆりえ」という孤独な個体へと引き戻そうとする。
肉の壁が、さらに二人を圧迫する。
溶け合う蜜の快楽と、掌を焼くエゴの激痛。
矛盾する二つの熱量に挟まれ、ゆりえの意識は、点滅する視界の中で激しく揺らいだ。
メルミは、その混乱したゆりえの瞳を射抜くように見つめ、全体重をかけて彼女の掌の「熱」を踏み抜いた。
「……痛いんでしょ? アンタの『自分勝手』が、そこでまだ、死に損ないの虫みたいに暴れてるじゃない!?」
(つづく)




