6-1
数日が過ぎた。
その間、オブシウスは領主代理として、溜まっていた書類を集中して裁いていた。
留守にしていた期間はそう長くはないとはいえ、机の上には所狭しと書類の山が築かれていた。積み上げられた書類も、確認だけで済む報告書から、承認が必要な稟議、指示を要する案件まで内容はさまざまだ。それらもようやく片付き、机の天板が久しぶりに姿を現し始めていた。
ちらりと、確認済み書類の山に視線を向ける。その中に、気になる報告があった。
最近の悩みの種であった魔物の被害が一時的に激減した、というものだ。それが何日か続いたかと思うと、まるで一時の幻想のように元に戻った。偶然かとも思えたが、被害件数に明確な差異がある。
何よりもオブシウス自身も実感していた。
行きは何度も魔物に襲われたが、帰りにはあの一度だけだった。
その一度きりの襲撃にも、気になる点があった。
あれほど民間人に重傷者が出るほどに、手強い魔物ではなかった。数が多かったとはいえ、襲われていた側の護衛も少なくなかった。にもかかわらず、あの被害。
治療を受けていた彼らはこう言っていた。――まるで、我々が到着した途端に魔物が弱体化したようだった、と。
馬鹿馬鹿しいと頭を振る。
それよりも考えなければならないことがある。
神子のことだ。
仕事を片付けている間、ウィステリアと顔を合わせることはなかった。監視や調査のために意図的に避けていたのもあるが。
だからといって、放置しているわけではなく、日々シトレンから報告を受けていた。しかし、彼女からの働きかけや苦情は一切ない。
「それで、神子殿は教会に毎日通っていると?」
「そうです。教会で何やらずっと本を読み、合間に併設の孤児院の子らに勉強を教えているそうです。護衛につけた兵からは、まるで道楽だと報告が上がっています」
道中の一件以来、兵たちの神子への心象は良いものではない。彼らから見れば、神子が何をしていても気に入らないのだろう。
そうした不満は、偽物の疑いとともに静かに広まりつつある。屋敷内でもその話を知らぬ者はいないだろう。
いい加減、無視できる状況ではない。王都への報告も必要であるし、そろそろ動かねばなるまい。
「何を調べている?」
「神話や伝承のようです。一応、神木のためということですが」
「……」
「止めさせますか?」
シトレンからの問いかけに、それには及ばないと答える。
好きにさせてかまわない。あそこに重要書類などはないはずだ。せいぜい収支書類や歴代管理者の日誌ぐらいで、その内容だって見られて困るようなものはない。
あの神子は何を考えているのか。
神木のためにといいながら、その件で何の相談も報告もない。疎外されていると気づいているはずなのに、彼女は何一つ反応を示さなかった。
ただ、淡々と日々を過ごしている。
一度自分の目で確認する必要がありそうだ。
オブシウスは立ち上がる。
しばらく出てくるとシトレンに伝えて部屋を出て行った。
「あなたは何をしているんだ」
授業が終わり、子どもたちを見送っていたウィステリアに、背後から声がかかった。
自分に声をかけてくる人は限られている。コニーかスパロウ、後は子どもたちだ。でも、そのどれでもない。だからといって、聞き覚えのない声でもない。
ゆっくりと肩越しに振り返れば、そこには想像通りの人物が立っていた。
相手の姿を認めると、くるりと体の向きを変えて会釈する。
「オブシウス卿、……ご無沙汰しております」
なんと挨拶すべきか逡巡した結果、無難な言葉を選んだつもりだった。だが、嫌味っぽく聞こえた気がして後悔する。
そっと相手を伺うと、その表情に変化はない。安堵しつつも、何の用かと戸惑いを覚える。
ウィステリアにとって、彼は鬼門そのものだった。放っておいてくれるなら、それが一番有難い。
特にここ数日が、平和で順調だっただけに、急な登場に胸の奥がざわりと揺れた。
ひとまず早々に切り上げようと、ウィステリアは背筋を正した。
「ご覧の通り、少し子どもたちに勉強を教えておりました。終わりましたので、もう戻るところです」
「そうではない。……なぜ、あんな教え方をしている?」
そのまま踵を返そうとしたが、オブシウスはそれを無視して言葉を続ける。
どうやらずっと前から様子を見ていたらしい。ウィステリアの授業風景に思うところがあるようだ。無理もない。
今日の授業は、6歳から10歳ほどの子たちが集められた。彼らは、ようやく100まで数えられるようになったぐらいで、計算はできない。
だからこそ、小石や葉っぱの身近なものを使って足し算引き算を視覚的に教え、手遊びを用いて楽しく計算を覚えてもらった。飽きてくるであろう授業の終わりの方では、あえて桁の大きい計算をさせていた。
正解は出せなくていいと言っている。いくつより大きいか、いくつより小さいか。それだけでいい。
オブシウスが見ていたのがこの最後の部分であるならば、不可解な授業だと怒るのも無理はない。
でも、孤児である彼らにとって勉強に意義を見出すことは難しい。もう少し大きくなれば、将来を見据えて身に入るかもしれないが、まだ授業より手伝いを覚える方が価値がある。
だからこそ、少しでも楽しい授業を行い、思い出の中に教えたことが欠片でも残ってくれればいい。ウィステリアはそう思っている。
「なぜあんな教え方をしている?」
続けざまに問われ、ウィステリアはどう説明しようかと悩んだが、どう話したとしても彼に伝わると思えない。であれば、言っても栓のないことだ。
「申し訳ございません。次回からは気を付けます」
深々と頭を下げて、話を打ち切る。今度こそ踵を返そうとすると、腕をつかまれた。
「待て、そうではない」
「……」
「あなたは何を考えている?」
ウィステリアは返答することなく、掴まれた腕を見ていた。
いつもであれば、相手が諦めるまで待ち続けていただろう。
なのに今回ばかりは、ただただ無言の間が続く。
ウィステリアの胸の内にふつふつと浮かぶものがあった。
この国に来ることが決まったあの日から、いつも気配だけがしていた死の影が、息遣いを感じるほどに近づいてきたことを感じていた。
加えて、いつもと違う環境、慣れない人間関係、心休まらない場所。
恐らく、ウィステリアは心身ともに疲れ切っていた。
だから、抑えきれなかった。
冷ややか視線を相手に向ける。
どのみち、彼はいずれウィステリアを嫌うのだから、それが少し早まったところで問題ないだろう。協力を得られずとも、為すべきことを為せさえすればいい。
どこか吹っ切れたような――いや、半ば投げやりに近い思いで口を開く。
「私は、あの子たちが数字の感覚さえ掴めてくれればいいと思っています。彼らに素早く正確に計算できるようになんて考えていません」
「感覚……?」
「そうです。素早く、正確な計算なんて必要ないでしょう?」
眉間にしわを寄せ、承服しかねると表情が訴えている。
「彼らが、役人や商人になれると思いますか?」
「……後見人や保証人がいなければ難しかろう」
「つまり、現実的ではないということです」
きっぱりと言い切れば、オブシウスは鼻白んだ。
配慮の上で希望的観測を述べたことはわかるが、今はそういうことを話したいわけではない。
「であれば、正確な計算ができ、スラスラと文章が書ける必要性はありません。彼らに必要なのは、将来騙されたり搾取されない程度の知識です」
「それがあの授業だと?」
「彼らに、暗記させるように教えても何の意味もありません。――ところで、あの子らの勉強時間はどのぐらいあると思われます?」
「ふむ……、一日一時間程度か?」
「いいえ、五日おきに、一時間ほどです」
オブシウスは目を見開いた。
だいぶ想像の下限の範囲で答えたはずなのに、それをさらに下回る。
「そもそもの勉強時間が、この授業の時間だけです。彼らには、教科書も紙もペンもありませんから、自習も予習も復習もまずできません」
この世界では、子どもも立派な労働力である。掃除洗濯料理、畑仕事に針仕事。手伝いから始まり、場合によっては奉公に出ることもある。
ましてやこの孤児院では、乳児を含めて50人近い子どもをたった5人の大人が見ているのだ。子どもたち自身も働かなければ、生活が回らない。
「当然、五日前の授業内容なんて覚えていません。でも、感覚だけは残るでしょう。何かおかしい、合わない気がする。それだけで十分に身を守れるでしょう」




