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パチンと薪の爆ぜる音がひときわ大きく響いた。
夕食後、寝る前のひと時。本来なら穏やかな時間が流れるはずが、今はひどく居心地が悪い。
遠巻きに向けられるいくつもの視線が、ウィステリアに鋭く突き刺さる。
縫い付けられたかのように体の自由が奪われ、立ち上がることさえ憚られた。
何もできず、ウィステリアは焚火の前に座り、揺らめく炎をただ見つめ続けていた。
周囲の雰囲気に気付いていない素振りで、ゆっくりとカップの中身を口の中に流し込む。お茶が甘露のように染みわたり、自分が渇ききっていたことに気が付く。水分が体の中をめぐり、少しだけ緊張がほどけたような心地がした。
――これを飲んだら休ませてもらおう。
そう思って、両手に持ったカップへ視線を落とす。すると、水面に映る自分と目が合った。
そこに映る自分自身を見てぞっとする。
疲れ切り、虚ろな表情。
見ていられなくて、震える指先でカップの中身をかき混ぜる。水面に映った自身の姿が、崩れて消えた。
消えたのを確かめても、かき混ぜる手は止まらなかった。カップの中に渦が生じ、真っ黒な穴が口を開ける。覗き込んでいると、吸い込まれそうな感覚に陥る。
それでもウィステリアは視線を外せなかった。ぐるりと渦巻く水面が、彼女の記憶を深く深く巻き戻す。
ウィステリアは重傷者の治療を終えると、静かに息を吐いた。
残りは部隊の治癒術師や、医術の心得のある者に任せるしかない。薬には限りがある。全員を癒すことはできない。
本来、神子であれば神聖術で大人数を癒せるはずだが、彼女にはそれができない。
自分がいなくとももう大丈夫なことを確認すると、足早に馬車に戻ろうとした。
そんな彼女をオブシウスが遮った。
「まずは、皆を治療していただき感謝申し上げます」
感謝というには、声が固すぎる。
「ですが、何故癒しを与えていただけないのでしょうか?」
「……」
風が吹き抜け、血と草の匂いが混ざり合って鼻を刺す。
「施しのつもりですか。……ものを与えれば、それが救いになるとお考えですか?」
さすがにそこまで悪く取られるのは予想外で、はじかれたようにオブシウスを見上げる。
険しい表情に、開きかけた唇は何もできずに閉じられた。
言っても栓のないことだから。
どんなに言い訳を並べたって、意味はない。
「では、そのように受け止めていただいてかまいません。……ですが、彼らが助かったのは事実です」
口にしてから、胸の奥が痛んだ。自分でも、これほど冷たい声が出るとは思わなかった。
まるで捨て台詞のようだと自分でも思いながら、彼の横をすり抜けて馬車へと乗り込む。
扉を閉める瞬間、無数の責めるような視線が突き刺さった。
複数の鳥が一斉にはばたく音が辺りに響き、深く沈んでいたウィステリアの思考が一気に引き戻された。
何かあったのかと周囲を見渡すと、皆もまた同じように警戒している様子が確認できた。何もないとわかれば、徐々に落ち着いていった。
おかげで、ウィステリアへの視線も少しばかり緩んだ気がした。
手元のカップは、すっかり冷めきっていた。
残った中身を一息に飲みきると、近くに控えていた少年にそのカップを差し出す。
「ありがとうございました。もう休ませていただきます」
少年はウィステリアと視線を合わせない。不自然なほどに俯いて、ひったくるように受け取った。
ウィステリアはもう一度礼を言い、自身に用意された小さな天幕に入る。
少年の凍てつくような眼差しをその背に感じながら。
天幕の中に入れば、全身の力が抜けた。
何も考えたくなくて、その場で膝を抱えた。
それなのに頭には嫌になるほど、どうしようもないことばかり思い浮かぶ。思考どころか身の内まで、無理やりかき混ぜられるような不快感が込み上げる。
はじめからできないと、腕を振り払うべきだったか。それとも、手が離れた隙に逃げ出すべきだったか。いっそ薬だけ渡した方がよかっただろうか。
とめどなく回り続ける思考を、頭を振って無理やり打ち切る。ほうほうの体で寝床まで行くと、きつく目を閉じた。
まぶたの裏には、いつまでも昼間の光景が繰り返された。
離れた焚き火の向こうで、オブシウスはウィステリアを見ていた。炎が彼女の頬を照らすたび、その横顔に揺れる影が生まれる。
見るつもりなどなかったのに、目が離せなかった。
やがて、その背が天幕の中に消えると大きく息を吐いた。
ウィステリアの言う通り、彼女のおかげで誰ひとり命を落とさなかったのは事実だ。
治癒術師では応急手当程度でしかなく、重傷者は聖職者の術でないと治しきれない。だからこそ、あの場で誰もが高位の聖職者である彼女に縋った。
だが、彼女がしたのは癒しではなく、薬による治療。多くの者の期待が裏切られた。
だから、皆の不信が膨らむ前に何か理由があって術を行使できないのであれば、それを説明させようとした。
だが、何の返答もなかった。
あそこまで言うつもりはなかったが、こちらの思いなど切り捨てるかのように、弁明も申し開きもないことが受け入れがたかった。
「あの娘は、本当に神子なのか?」
「神子ってのは、触れるだけで癒すって……」
「薬に頼るなんておかしい」
「本当に神子……なんでしょうか」
はじめにそれを言い出したのは誰だったか。
一度投げ入れられた疑念は、波紋のように広がっていく。恐らく明日には、偽物だという話がまことしやかに囁かれていることだろう。
彼女は癒さなかった。
それでも、薬は効いた。
あれだけの深手を即座に治す薬は、少なくとも貴族でも躊躇うほどの金が必要になる。それを惜しむそぶりも見せず、惜しげもなく使っていた。
果たしてその姿は何を意味するのか。
「何のつもりだ……」
声に出すつもりはなかったが、唇が勝手に動いていた。
炎の音だけが応える。
しばらくして、部下の一人がオブシウスに近寄る。
あの時神子を連れ出した少年が、疲れ切った顔でつぶやく。
「隊長、……僕たちは誰を守っているんでしょうか」
「今は任務を優先しろ」
「そう、ですよね……」
神子を迎えたときには期待と憧憬に満ちていた表情が、今は失望が色濃く表れていた。
少年が去り、再び静寂が訪れる。
オブシウスは深く息を吸い、胸をかすめる疑念とは違う感情を静かに吐き出した。
火種を燃やし尽くした火が、燃えカスの中で頼りなく揺らめいている。
――あの少女は何を思っているのか。
考えても答えは出ず、ただ夜が深まっていくばかりだった。




