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出発の準備をする神子一行を、教皇は無表情で見下ろしていた。
今頃、神子は期待に胸をふくらませているのか、それとも苦慮しているのか。さして興味はない。どちらでもいいことだ。
むしろ、これで頭の痛い問題が片付いた。その方が、余程重要だった。
突然の宵の国からの依頼は、断れるものではなかった。多額の寄付に献上品。今まで教会の威光が届かなかった国が、救いを求めて歩み寄って来た。むしろ、歓迎すべきことだ。
側近たちからも、この機会を逃す手はないとの声が上がっていた。それらを無視することはできなかった。
しかし、一つ問題があった。
我々は、旧来の伝統や信仰を一新することで台頭してきた派閥である。つまり、神木などという古の遺物は我らの手に余る。
――まぁ、よい落としどころだろう。
とりあえず、あの神子を派遣した。その事実だけで十分だ。
失敗したところで、その責は務めを果たせない神子にある。宵の国から抗議があったとしても、多少の詫びと神子を差し出せば済むだろう。
何にせよ、どうとでもなる。
再び眼下に目を向ければ、影がゆっくりと遠ざかっていく。
神子の一行とはとても思えないような質素な列だ。見送りも、歓声も、何もない。
何の感慨もなく、教皇は背を向けて歩みだす。
彼が執務室に着く頃には、先ほどの光景も彼女のことも頭の中からは消えていた。
朝霧でかすむ山道を、ウィステリアを乗せた馬車が車輪を軋ませながら進んでいく。
世界樹を擁する聖国を出てから約ひと月。野を越え山を越え、ようやく目的地である宵の国が近づいてきた。
宵の国は大陸の北西端に位置し、山脈と海に守られた土地である。
隔絶された場所柄、今なお古き文化と信仰を色濃く残していると聞いたことがある。それゆえ、信仰の中心である聖国とは相容れない部分を持つ、と。
今までお互い不干渉を保ってきたが、今回の任務がどのような変化をもたらすのだろうか。
そんなことをウィステリアが考えていると、無骨な国境の砦が、霧の奥から姿を現した。年季の入った、巨大な建物だ。ウィステリアは、その威圧的な外観に目が釘付けになる。
いよいよだ。
食い入るように見ていた窓から離れ、そっと膝の上に手を置いた。
指先がかすかに震えていた。ゆっくりと息を整え、心を落ち着かせる。
やがて、馬車は徐々に速度を落とし、その動きを止めた。
扉が開かれると、冴え冴えとした風が頬を打つ。もう春だというのに、空気は未だ冷たかった。
陽の光が霧の幕をゆっくりと溶かし、砦の中で整列する兵たちを照らした。
その中央に、ひときわ背の高い青年が立っていた。
――オブシウス。
その名前が浮かんだ瞬間、驚きが胸の内に広がった。
彼のことは知っている。
時に主人公たちを助け、時に敵対もする。度々姿を現す、謎多きキャラクター。
そして、彼こそが最初にウィステリアについて言及した人物でもある。残念ながら、良い印象ではないようだったけれど。
ウィステリアは、そっと視線を外した。
相手がウィステリアを知っているということは、いつかは出会うべき人ではあった。それなのに、今日まで面識はなかったことに、今更ながら気が付く。
何か運命めいたものを感じる。やはり、その時は近づいてきているのだと、そんな気持ちになる。
「聖国の神子殿、ようこそ宵の国へ」
目の前に影が落ち、低く整った声が落ちてきた。オブシウスがすぐ目の前に立っている。
恐る恐る顔を挙げれば、相手は礼を尽くしてウィステリアを出迎えていた。
「オブシウス・ディ=カーネリアンと申します。女王陛下の命により、お迎えに参りました」
ウィステリアも少し慌てて礼を返す。
名前からして貴族の出のようだが、騎士服がよく馴染んでいる。
「ウィステリアと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
思っていたよりも、冷静な声が出てほっとした。
胸の内に渦巻く緊張を吐き出して、顔には笑みを貼り付ける。
二人はほぼ同時に頭を上げた。
ようやくウィステリアは、相手の姿をしっかりと確認する。ゲームの立ち絵よりも少し若い。20歳を少し越えたぐらいに見える。
やはり、ゲーム本編の開始はそう遠くない。
黒髪の合間から光る琥珀色の瞳が、まっすぐにウィステリアへと向けられている。その瞳の中に、軽蔑や嫌悪の色はない。
今は――まだ。
「こちらの馬車にお乗りください。――供の方々は?」
「……あいにく、一人です」
一瞬、オブシウスの眉がわずかに動いた。
背後では荷物を移し終えた馬車が、護衛の騎士たちを引き連れて去っていく。
不審に思われても当然だ。
神子と呼ばれながらも、誰ひとり供がいない。それも仕方のないことだ。厄介払いのようにこの任を押し付けられたのだから。
それが相手にも伝わったことだろう。羞恥と情けなさで、胸の奥がきゅっと縮こまる。居たたまれなかった。
オブシウスは一瞬だけ目を伏せ、「そうですか」と静かに応じた。
追及されなかったことに安堵して、ウィステリアは促されるままに彼らの用意した馬車へと乗り込んだ。
先ほどまでの馬車よりも柔らかな座席に、ひざ掛けがさりげなく置かれていた。静かに腰を下ろし、ひざ掛けを手に取るとふんわりとした感触が手になじんだ。
馬車の扉が閉まる音が、冷たい空気に吸い込まれていった。
オブシウスは出発準備の指示を出すと、道の先を睨むように見据えた。
そもそもオブシウスには、聖国が本当に信頼に足る存在なのか、という疑念があった。
昨今の魔物の異常発生、そして凶暴化。何かが起こっている。そう感じざるを得なかった。
だが、各国に影響力を持ち、こうした異常事態に率先して対処するはずの聖国は、何一つ動きを見せようとしない。それどころか、異常を知らせても信仰心が足りぬからだとうそぶく始末だった。
幸いなことに、被害はまだそこまで深刻ではない。自警団を組織し、警戒に当たる。移動の際には、多めに護衛を雇う。そういった対処で、今のところは重大な被害は防げている。
とはいえ、この状況が維持される保証はない。今後悪化していけば、人的被害や経済活動などへの影響は計り知れない。
にもかかわらず、この状況を利用して更に信仰を捧げることを求める聖国は、オブシウスから見れば恥知らずにもほどがある。
彼の心情はどうであれ、今回の件は女王たっての願いである。
静かに忍び寄る不安を、神木によって静めようとしている。人々には拠り所が必要だ。
今まで、この国には神木がなかった。必要もなかった。
だが、今この状況だ。必要性は理解している。
自分の感情は飲み込み、仕事だからと割り切った。
オブシウスは、もう一度馬車を見る。
そこには、神の奇跡を行使できるとされる神子がたった一人で乗っている。護衛も供も、全てこちらに任せて。
目を引く銀髪の合間から覗くのは、神秘的に輝く紫水晶の瞳。注目をものともしない淡々とした様子からは、ただ人とは異なる雰囲気を確かに感じた。
果たして何を考えているのか。
いや、と首を振る。相手が何者であろうとも、オブシウスの為すことに変わりはない。
気持ちを切り替え、出発の号令を発した。
やがて行列は進みだす。
馬車の窓の向こうでは、整然とした一団をオブシウスが率いる。その姿は、真っすぐで隙が無い。
その冷たく凛とした横顔を見つめていると、ウィステリアの中に不安とも期待ともつかない感情がうごめく。
自分の見えないところで「運命の歯車」が、かちりと音を立てて動き出す。そんな予感が胸をよぎった。
その予感が何を意味するのか。
このときの彼女は、まだ知らない。
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