12
布越しにも、期待に満ちたさざめきが聞こえてくる。
控室として与えられた天幕の中で、ウィステリアは一人、目を閉じて出番の時を待っていた。
正直に言えば、ウィステリアの体調は万全ではない。
傷口はふさがったものの、かろうじてといった状態だ。治療をしたスパロウにも、無理をすれば傷口が開くと釘を刺されている。
傷からの微熱もあり、出血による貧血も残っていた。今感じている寒気が、熱によるものか、貧血によるものか。自分でもわからない。
それでも、ウィステリアにそれほど不安はなかった。
随分と皆にはよくしてもらった。
マルダは段取り変更にも即座に対応し、混乱を生じさせることなく、ウィステリアの身支度を時間通りに終わらせた。頭のてっぺんからつま先まで整えられ、顔色の悪さも化粧で隠されている。
コニーは、孤児院の子たちと会いに来てくれた。皆で作ったという、葉冠をもって。新芽の緑と花の彩りがきれいな冠だった。ウィステリアが頭を下げれば、照れくさそうに皆でかぶせてくれた。
オブシウスは、言葉の通りに全ての対応を巻き取った。来賓として王族が来ているそうだが、顔合わせは非常に簡素に済ませられた。また、儀式に先立ち皆の前でも挨拶を行う予定だったが、それらもオブシウスがすることとなった。
そう、ウィステリアがすべきことはたった一つだけ。
声がかかり、天幕の入り口が開かれた。
ウィステリアはゆっくりと歩きだす。
オブシウスは、舞台に近い席にいた。側には、女王の名代として来た王配や領主である義父、王都の有力貴族などが並んでいる。
その後方には、一目見ようと集まった民衆がいる。彼らは囁き合いながら、その時を待っていた。
ふと、わずかに日差しが弱まった。
朝は雲一つない晴天だったが、少々間が悪い。雨は降らないはずなので問題はないだろうと、オブシウスは思った。
ウィステリアが姿を現すと、水を打ったように静まり返った。
半月かけて磨かれた彼女は、初めて会った時からは見違えるようだった。
艶を取り戻した髪は月光を束ねたように輝き、血色のない顔は彫刻のような美しさがあった。
開かれた瞳は宵の口の空のようで、神の使徒である蝶の色にもよく似ていた。
ウィステリアがゆっくりと跪き、地面に開けられた穴に種をそっと置いた。
少しずつ、皆が気付かない程度に、影が濃くなっていく。
ウィステリアが立ち上がり、一度大きく息を吸う。その唇から、歌声が零れ落ちる。
はじめは、どこか遠くから響いてくるように聞こえた。一節毎に、ウィステリアの手にある世界樹の枝が舞台を打つ。その度に枝につけられた鈴が、涼やかな音色を添える。
気が付くと、一歩一歩近づいてくるような歌声に合わせて、徐々に徐々に辺りが薄暗くなっていた。
日が暮れるほど、時間は経過していない。太陽は未だに天頂にある。ただ、その太陽が徐々に欠けていっていた。
気が付いた人々の微かな悲鳴、戸惑うようなざわめきが、ゆっくりと広がっていく。
しかし、それもすぐに収まる。
周囲を見回す人々の前を、何かが横切った。
神秘的で美しい、紫色の蝶。
無数の蝶が、ランタンのように舞台を照らす。幻想的な光景。
やがて、蝶が一か所に集まる。
弾けるように散り散りになった時、そこには小さな芽があった。
みるみるうちに枝葉を伸ばし、人の背を越え、若木へと成長した。
白昼夢のような光景から目を覚ますと、辺りはすっかり明るくなっていた。
先ほどの光景は夢だったのかと思われたが、明らかに前と違うものがあった。先ほどまではなかった、見事に成長した木があった。青々とした葉に薄紫色の花をつけた、神々しく輝く神木が。
歓声が湧き上がった。
ウィステリアが音もなく舞台を降りる。
オブシウスは、はじかれたように立ち上がった。
ウィステリアは、慎重に足を進める。
目の前が白くかすんで、足元がおぼつかない。控室までの少しの距離が、どうしようもなく遠く感じた。
やっとの思いで天幕までたどり着くと、全身から力が抜けた。
誰かが、その体を支えた。
耳元で、誰かがウィステリアの名前を呼んでいる。
「大丈夫です。少し休めば、問題ありません。――それより、後はよろしくお願いします」
体は鉛のように重かったが、心は晴れやかだった。ずっと心の片隅にあった死の気配が、今は影も形もない。
本来ならば、この後もやらなければならないことはあるが、彼が――オブシウスがいるのであれば大丈夫だろう。
ウィステリアは、穏やかな表情で意識を手放した。
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ひとまず第一部はこれにて終了です。
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