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流血表現があります。苦手な方はご注意ください。
少し進んだ先に、月明かりに照らされた開けた場所があった。
二つの人影が、非常に近い距離で何やら言い争っている。
「お嬢様、もう帰りましょう。大丈夫です、きっと許してくれますから」
「うるさいわね! ついて来ないで!」
相手の腕をつかんで宥めるコニーと、それを振り払おうとするスピネル。
スピネルは強気な口調とは裏腹に、時折肩を震わせ、落ち着きなく辺りを見回している。
さ迷っていた視線が、ウィステリアを捉えた。
明かりを消して、すぐに捕まえられる距離まで詰めたかったが、気付かれてしまっては仕方がない。相手を刺激しないように、穏やかに話しかける。
「やっと見つけました。スピネル様、コニー、さあ帰りましょう」
ゆっくりと近づき、手を差し伸べる。しかし、相手は猫のように後ずさる。
スピネルはウィステリアをきつく睨みつけ、鋭い声を上げる。
「それ以上、近づかないで! これがどうなってもいいの!?」
そういって、掴まれている手とは逆の手で巾着袋を振る。指先を放せば、木立の闇の中に消えていってしまいそうだ。
「あなたが悪いのよ。兄さまを惑わせて! 偽物のくせに!」
「ま、惑わす……?」
予想外の言葉に、少し戸惑う。弁解しようとして口を開くが、続きを言うことはできなかった。
なぜなら、スピネルが尋常ならざる様子だったから。ボロボロと涙をこぼしながら、地団駄を踏む。
ウィステリアの知る限り、彼女はいつだって、邪魔をするときだって貴族令嬢として振舞っていた。それが、今や癇癪を起した子供のようであった。
ウィステリアは強い危機感を覚える。
(どうしましょう。これは、完全に世界樹の種の影響下に入ってしまっている)
「ずっとずっと一緒にいたのは私よ。これからもずっと一緒にいるの!」
「……」
「いいじゃない。本当の兄妹じゃないなら。ただの兄妹なら、いつか離れて行っちゃう。でも、本当の家族になれれば、いつまでも一緒にいられるの!」
世界樹の種は、あらゆるものを引き付ける。魅せられたものは、理性が弱まり、衝動的な言動をとりやすくなる。
種の影響から抜け出すには、捕まえて取り上げるのが一番良いが、今それをすればスピネルは袋ごと放り投げてしまうだろう。
「私と結婚すれば、兄さまはまごうことなきカーネリアン家の当主になれる! それが一番正しいわ!」
その叫びに触発されたように、茂みから影が飛び出してきた。
誰も動けないほどの速さで、飛び出してきた狼がスピネルを組み伏せる。鋭い爪を背中に突き立てながら、低い唸り声をあげた。
突然のことに、事態の把握ができていないスピネルは恐慌状態に陥る。悲鳴を上げ、抜け出そうとがむしゃらに動く。
狼は暴れる獲物に、より一層拘束を強める。
弾き飛ばされ、尻もちをついていたコニーが、慌てて起き上がる。放してと言って、狼を叩いた。次の瞬間、逆に狼に嚙みつかれてしまう。
悲鳴を上げながら、コニーが後ずさる。
ウィステリアが、慌ててコニーへ駆け寄る。
近づくウィステリアに、狼は威嚇するものの、スピネルを捕えておく方を優先したようだ。
素早くコニーの傷を確認する。噛まれた時に少し暴れたせいで、噛み傷というより裂けたような傷になってしまっている。
ウィステリアは薬を一本取り出し、すぐにコニーに飲ませる。
その効果を確認することなく、今度はスピネルへと向き直る。
だが、寄ろうとすると、スピネルの首筋に牙をあてるので、身動きが取れない。
その時、振り回されたスピネルの手から、何かが弧を描いて宙を舞った。
月明かりを反射して虹色に光るそれは、今回の発端となった世界樹の種であった。
その光に、ウィステリアの視線が吸い寄せられる。狼もまた、同じように目で追う。
お互いが素早く動いた。
狼は種のもとへ。ウィステリアは、スピネルのもとへ。
スピネルに駆け寄り、ウィステリアは彼女の状態を確認する。意識はあるが、背中の服は裂け、肉が深く抉られている。
遅れて駆け付けたコニーが、スピネルの様子に悲鳴を上げる。
ウィステリアはためらうことなく、回復薬を使用した。振りかけると瞬く間に、傷が癒えていく。
胸をなでおろした反面で、ウィステリアは一抹の不安を感じる。
――残る薬は、たった一つ。
一方で、狼は種へと駆け寄ると、勢いのままに口に含み、そして飲み込んだ。
変化は一瞬だった。
ウィステリアが振り返った時には、二本の足で立ち、岩のような巨躯をもった何かがこちらを見下ろしていた。
もはや、ただの獣ではない。人類の脅威である魔物『人狼』がそこにいた。
満月に向かって、人狼が甲高い声を上げる。それに呼応するように、周囲の茂みから唸り声が一つ、二つ、三つと響いてくる。
震える二人が、ウィステリアにしがみつく。
ウィステリアもまた、恐怖に顔を引きつらせながらも彼女らを背にかばう。
自分が護らなければ、そう決意してウィステリアが相手を見据えた瞬間。ふと考えてはいけないことを考えてしまった。
――もし、ここで力を使ったら、明日までには回復しきれない、と。
この状況で、躊躇いは致命的だった。
ウィステリアの顔に影が落ちる。人狼は、彼女たち目がけて、既に大地を蹴っていた。
鋭い人の叫び声と同時に、ウィステリアの目の前に土の壁がせり上がった。
人狼は、その土の壁に跳ね返されて地面を転がる。
声の方向へと視線を向けると、剣を抜いたオブシウスがそこにいた。
「いたぞ! 神子とスピネルだ」
その声に従い、数人の兵が三人を庇うように囲んで武器を構える。
その向こうには、人狼と対峙するオブシウスの背があった。
戦況は、あまり良くない。
人狼に呼び寄せられた狼は、倒しても倒しても次が現れる。人狼自体も、斬撃や魔法を受けても倒れるそぶりはない。それどころか、碌に効いている様子はない。
このまま消耗戦になるのは分が悪そうだった。
「町近くにこんな魔物がいるはずはないのだが、どういったことだ?」
それを感じ取っているのだろう、オブシウスが状況を打破しようと問いかける。
「もとは普通の狼でした。世界樹の種を飲み込んで、変異しました」
「……どうすればいい?」
「それは、私にも……」
まだ摂取して間もない。吐き出させられれば一番良さそうだが、できるだろうか。
「なんでもいい」
「吐き出させられませんか? 腹部に衝撃を与えるなどして」
「……やってみよう」
慎重にオブシウスは立ち回る。
一度大きく人狼を撥ね飛ばして、距離をとると魔法を練り上げる。
身を低くして疾駆する人狼の鳩尾に、地面から突き出した岩が深く抉る。
岩をも砕けるほどの衝撃に、人狼の体が宙に浮く。
その瞬間、押し出された空気とともに、世界樹の種が吐き出される。
ウィステリアは走った。弧を描く種をかろうじて掴み取る。
「ウィステリア!」
安堵したのも束の間、振り返れば人狼の大きな手が目の前に迫っていた。




