失望の痛み
「兄上、話があります。」
ルシアンに呼び止められたのは放課後だった。
学園の中庭。春の風が柔らかく吹き抜け、芝生の上にはセレスティアが植えたたんぽぽが、白い綿毛となって揺れている。
その光景が、なぜか儚く見えた。
「ルシアン? 話とはなんだ……?」
弟は少し俯いてから、僕の目をまっすぐ見上げた。
あの純粋な瞳が、今はどこか苦しげに揺れていた。
「兄上……噂は本当なのですか?」
「噂……? リアナのことか?」
「はい。」
「違う。リアナはセレスティアに何もしていない。全部、誤解なんだ。」
そう答えると、ルシアンの瞳がわずかに揺れた。
けれど彼は、沈黙を挟んでから言った。
「リアナ様のことではありません。兄上は……リアナ様のことが、お好きなのですか?」
その問いに、息が詰まった。
胸の奥を突かれるような痛み。
その一言が、ずっと自分でも避けていた感情を暴き出した。
「ちが……違う。それは……リアナが噂で苦しんでいるから、助けようとしているだけだ。」
「……そうなのですね。」
ルシアンは、少し寂しそうに微笑んだ。
その顔がまるで、何かを悟ったようで、逆に僕の方が言葉を失った。
「でも、噂は止まりません。これ以上リアナ様を庇えば、兄上の立場が危うくなります。」
「わかっている。……それでも、リアナがやっていないと皆が信じるまでは続けるつもりだ。」
「兄上、それでは……セレスティア様を軽んじているように見えてしまいます。」
「軽んじてなどいない。セレスティアは婚約者だ。大切にしている。」
「……。それは“婚約者”として、でしょうか?」
ルシアンの声音が低くなる。
春風が止まり、遠くで鐘の音が鳴った。
白い綿毛が一つ、風のない空に舞い上がっていく。
「セレスティア様は怪我もされています。信じたい気持ちよりも、事実を見てください。」
「事実……? リアナがセレスティアを攻撃したというのが、事実だと言いたいのか?」
「兄上……!」
ルシアンの声が強く響いた。
彼がこんな声を出すのを、僕は初めて聞いた。
「兄上は第一王子です。国の未来を背負う方です。たとえリアナ様に想いを寄せていたとしても、立場を見失うべきではありません。セレスティア様を傷つけたと噂されている彼女を庇うのは、兄上にとって――危険なことなのです。」
「わかっている。だが……!」
「兄上!! 感情で動かないでください!」
ルシアンの叫びが、庭に響いた。
鳥たちが一斉に飛び立ち、綿毛が空へと散っていく。
弟の目には、焦りと恐れが混じっていた。兄が破滅へ向かっている――そう感じているのだろう。
「……僕は、感情で動いているわけじゃない。」
「兄上……。」
「リアナは無実だ。だから、それを皆に伝えたいだけだ。真実を歪めたままにしたくない。」
「……兄上は、周りが見えていません。」
ルシアンは小さく首を振った。
その仕草に、かつての僕の姿が重なる。正しさを信じて、現実を見失っていた頃の。
「目を覚ましてください。兄上は“正義”のつもりでも、その行動が誰かを傷つけることもあるのです。」
その言葉が胸に刺さった。
彼は、まだ知らない。セレスティアの裏の顔も、リアナの涙も。
でも――知らないからこそ、まっすぐに“正しいこと”を言える。
その正しさが、今はあまりに眩しかった。
「……ルシアン。」
「……兄上。失望しました。兄上は、もっと立派な、責任を持って行動できる王子だと思っていました。違ったのですね。」
ルシアンは小さく吐き捨てるように言うと、背を向けた。
春風に揺れる綿毛が、彼の後ろ姿を包むように漂っていく。
――立場か、真実か。
僕はどちらを選ぶのだろう。
胸の奥で、セレスティアの笑顔と、リアナの涙が交錯した。
そのどちらも、まだ守らなければならない。




