母の元へ
瓦礫の山が静かに沈黙を取り戻す頃、リリアの目の前に膝をついたヴェル=ザルファは、まるで忠誠を誓う騎士のように頭を垂れていた。
「……それで、どうやって一緒に動くつもり?」
リリアが困ったように尋ねると、すぐ横で白い毛並みを揺らしたフィーネがふわりと浮かび上がった。
「ふむ、それなら《顕現縮小》の魔法をかけてあげればいいよ」
「そんなのあるの?」
「あるある。大きな存在を一時的に“小さくする”ための古い精霊魔法。いつでも本来の姿に戻れるようにしておけば、安心でしょ?」
フィーネはお手々をぱちんと鳴らした。瞬間、光の粒子がヴェル=ザルファを包み込む。
「う、うお……!?」
ギルドマスターが思わず声を漏らす中、巨大な竜の身体が、音もなく、徐々に小さくなっていく。
やがて光が収まった頃——そこに立っていたのは、全長わずか50センチほどの、まるでぬいぐるみのように可愛らしい小型竜だった。
「……なんだか、おもちゃみたいになったわね」
「し、仕方ない……これも、共に在るため……」
ヴェル=ザルファはその小さな体でふわりと宙に浮かび、そっとリリアの肩に着地した。しっぽがぽん、と彼女の頬をくすぐる。
「うわ、ちょっと……くすぐったいよ」
「す、すまない……」
「ぷっ、似合ってるよ、リリア」
フィーネが微笑むと、リリアもつられて笑顔になった。
世界を震撼させた“天災”が、今は小さな竜として彼女の肩にちょこんと乗っている——
その光景は、数時間前の絶望などまるで嘘のように、ほんのりとした温もりを纏っていた。
静寂を破るように、ギルドマスターが一歩踏み出した。
「……答えてくれ。なぜ、お前はこの街に現れた? 本当に、襲う意図がなかったのか?」
肩にちょこんと乗った小さなヴェル=ザルファは、わずかに目を伏せ、静かに語り始めた。
「私は……“アステル”という存在に、声をかけられた。『この街を見てこい』と、ただそれだけの命令だった」
「アステル……?」
ギルドマスターの声に、険しさが滲む。
リリアもその名に小さく反応したが、特に何かを知っている様子はなかった。ただ、どこかで聞いたような……と首を傾げるだけだった。
ヴェル=ザルファは続ける。
「私は、あの存在には逆らえない。ただ……抗えないほどの“格”だった。威圧感でも、魔力量でも、桁が違う。“命令”というより、“従わざるを得ない”というのが正しい」
その目に浮かぶのは、恐怖とも、敬意ともとれる微妙な感情だった。
「だから私は、この街に来た。だが……上陸するや否や、大量の人間が攻撃を仕掛けてきた。私は反撃した。それだけだ。幻獣たちも、私を守るために動いただけ」
ギルドマスターは沈黙したまま、その言葉をじっと聞いていた。
そのとき、フィーネがくるくると宙で踊るように回転し、ぽんっと宙に浮かぶ。
「アステル、か……リリア、聞いたことある? あの名前はね、いくつかの古文書に出てくるんだよ。“空に座す者”“星の目を持つ神”……そんな風に呼ばれてる。まぁ、“神”に近い存在とされてるんだけど」
ギルドマスターはわずかに眉をしかめた。
「神……そんな存在が、今もこの世界に関与しているというのか……?」
「正確には、“この世界の外側”から、だと思うけどね〜」
フィーネは気楽そうに言いながらも、どこか意味深な視線をヴェル=ザルファに投げた。
リリアは黙ったまま、それをただ静かに聞いていた。アステルという名前に特別な実感はない。ただ、その存在に何かが繋がっていくような、不思議な予感だけが胸に残った。
「……今はそれより、街を元通りにしないと」
リリアは静かにそう言うと、立ち上がってギルド本部の崩れた壁に視線を向けた。
瓦礫と化した建物、ひび割れた石畳、焼け焦げた街灯や屋根の残骸。誰もが呆然と立ち尽くすその中で、リリアの瞳だけが揺らがずに光を宿していた。
「お願い、少しだけ力を貸してね……」
そう呟いて両手を前に差し出す。手のひらには、かつて母が使った修復魔法の詠唱が、まるで染みついているかのように自然に浮かんでくる。
「——リペア」
言葉と同時に、リリアの周囲がふわりと柔らかな光に包まれた。
その光は風のように流れ、空気を震わせながら街の傷跡へと広がっていく。
瓦礫が浮き上がり、崩れた石が形を取り戻し、割れた窓ガラスが元の位置へはまり込む。
ほんの数秒の間に、そこには——
破壊される前の街の姿が、音もなく蘇りつつあった。
「なっ……!」
ギルドマスターが目を見開く。
「この広さ、この密度……ばかな。エレノアが全力で修復できたのは三軒ほどの家屋だった。それだって、魔力をすべて使い果たした後だったのに……!」
リリアの額には汗が浮かび、頬は少し赤くなっている。だが、苦悶の表情はない。むしろ穏やかで、優しくて、どこか母に似た微笑みさえ浮かべていた。
(死んだ人は戻せない……でも、せめて、みんなの居場所だけでも)
そんな想いが、リリアの魔力に乗って街全体に染み渡っていく。
ギルド本部の広場、商業通り、崩れた家々。
すべてが光に包まれ、まるで“時間”が巻き戻るかのように元の姿へと戻っていく。
「これが……リリアの、本当の魔力……」
ギルドマスターは言葉を失ったまま、ただその光景を見つめていた。
柔らかな光に包まれた街の中心、修復の魔法がひと段落すると同時に、人々の足音が少しずつ近づいてくる。
まず駆け寄ってきたのは、見慣れた三人の姿だった。
「リリアァーーー!!」
「無事だったか!!」
ユージン、アレン、ルーシー。
ルミナスブレイブの仲間たちが、埃まみれの服で走ってくる。
その後ろからは他の冒険者たち、さらには防衛任務で別行動だったロキの姿もあった。
「おまえ……生きてたか」
ロキがぽつりと呟くように言い、そして目の前の光景に息を飲んだ。
倒壊していたはずの建物は元通りになり、焼け焦げた地面には一輪の花さえ咲いている。
これが本当に魔法による修復なのかと、誰もが疑いたくなるほどだった。
「すげぇ……これ、リリアがやったのか!?」
ユージンが目を見開いて叫ぶ。
「この範囲、魔力量……お前、いったい何者なんだ……」
アレンも信じられないといった目でリリアを見つめる。
「……みんな……無事でよかった」
リリアは、ほっとしたように微笑み、少しだけ視線を伏せる。
そして、しっかりと顔を上げ、静かに──けれど確かに、口を開いた。
「ごめんね。今まで……ずっと、隠してた」
彼女の声は、風の音すら止まるような静けさを連れてきた。
「……みんな、ごめんね。ずっと、力を隠してた」
リリアの言葉が、静かにギルド本部の広間に響いた。
「普通の女の子として生きていきたかったから……
それがママが望んでた私の未来だったから……」
誰もがその場に立ち尽くし、言葉を探すようにリリアを見つめていた。
「そりゃ……驚いたよ。リリアが、あんな魔法を使えるなんてさ」
ユージンがぽつりと呟いた。
「でも、それを理由に責める気なんてない」
アレンが前へ一歩進み、まっすぐな視線を向ける。
「だって、お前はずっと俺たちのために動いてくれてた。俺たちが気づかないところで、きっとずっと頑張ってたんだろ?」
「リリアがいなかったら、何度も助からなかったよー」
ルーシーも明るく笑いながら、涙をこらえるように目元をぬぐった。
そして、ロキがゆっくりと前に出て言った。
「おまえ……そうやって、全部背負ってきたんだな」
彼は静かに拳を握りしめ、そして微笑む。
「でもこれからは、全部自分で抱えるな。仲間がいるってのは、そういうことだろ?」
その言葉に、リリアの胸の奥がじんわりと熱くなる。
「うん……ありがとう。ほんとに……ありがとう」
リリアは、涙を浮かべながらも笑顔で仲間たちを見つめた。
その笑顔は、誰よりも優しく、そして強く輝いていた。
瓦礫だった街はすっかり元通りになり、どこか懐かしい風景が夕陽に照らされていた。
ギルド本部の前で、リリアと仲間たちは円を描くように集まっている。その中心で、小さくなったヴェル=ザルファがふわりと翼を広げ、静かに口を開いた。
「……エレノアは、“ワールドエンドの向こう”にいる。あの渦の先にある、異なる世界に」
その言葉に、リリアの胸が大きく震えた。
「ママが……生きてるの?」
リリアの手がそっと胸元のネックレスに触れる。くまのチャームが、夕陽の光を柔らかく反射した。
フィーネが、いつもの飄々とした声で続ける。
「この世界の外には、もっと広くて……もっと厳しい世界があるよ? 人間が“最弱”とされる世界。君の常識は、そこじゃ通じないかもしれない」
それでも、リリアは迷いなく答えた。
「行くよ。私はママに会いに行く。だから、もう少しだけ——強くならなくちゃ」
その言葉に、仲間たちは誰も口を挟まなかった。ただ、静かに、力強くうなずいた。
アレンはリリアの肩に手を置き、そっと言う。
「……お前なら、絶対に辿り着ける。信じてるよ」
「帰ってくるまで、ちゃんとギルドに名を残しとけよ」
ユージンが拳を突き出す。
「お土産、お願いねー!ワールドエンドのパンとか!」
ルーシーがいつもの調子で笑った。
ロキはほんの一瞬だけ寂しげな目をしたが、それを悟らせないように笑って言った。
「おまえの帰る場所は、ここだからな。忘れんなよ?」
リリアは頷き、小さく微笑む。
「うん……絶対、また戻ってくるから」
そして彼女は、風にそっと背中を押されるように歩き出す。
その背には、誰もが知る“伝説の始まり”が、まだ静かに息を潜めていた。
——こうして、リリアの物語は次なる世界へと進み出す。
彼女の旅は、まだ始まったばかりだ。