覚醒
幻獣亜種の群れに囲まれていたはずの戦場は、信じられないほど静かだった。
魔力が満ちた空気が風も音も飲み込んでいる。
まるで、世界そのものが呼吸を止めて、ひとりの少女の行動を見守っているようだった。
リリアは、先にギルド本部へと駆けていったギルドマスターの背を目で追い、そして静かに振り返る。
そこには、幻獣亜種たちが数十体。
先ほどまで冒険者を蹂躙し、街を脅かしていた凶悪な存在たちが、今は動けずにいた。
誰ひとりとして、リリアに飛びかかる者はいない。
その理由は明白だった。
解き放たれた“それ”が、この場の空気を支配していたからだ。
少女の細い体から放たれた魔力は、まるで嵐のように場を包み、幻獣亜種たちの本能を麻痺させていた。
一歩、リリアが足を踏み出す。
そのわずかな動きに、幻獣亜種たちはビクッと身を強張らせた。
「……怖いの?」
彼女がぽつりとつぶやいた瞬間——
そのうちの一体が、声も出せずに走り出した。
その動きに釣られるように、他の幻獣亜種たちも一斉に方向転換し、雪崩のように逃げ出していく。
山を越え、林を駆け抜け、何かから逃れるかのように。
「逃げるの? ……まぁ、いいけど」
リリアはふわりと息を吐いた。
その顔に、怒りも悲しみも、驕りもない。
ただ、静かに。
仲間と街を守るために。
彼女は再び前を向き、ギルド本部へと歩みを進めた。
その背に、誰も追いつけない。
その力に、誰も抗えない。
けれど、まだ誰も知らない。
この静かな少女こそが、世界を変える“嵐”になることを——。
ギルド本部は、もはやその役目を果たせる状態ではなかった。
瓦礫と化した外壁、黒く焼け焦げた柱、地面には冒険者たちが数人、呻き声を上げる余裕もなく倒れている。
かつてこの街の誇りであり、冒険者たちの心の支えであった建物は、今や“災厄の玉座”と化していた。
その中心に、ヴェル=ザルファはいた。
空を裂いて現れた“天災”。
その黒紫の鱗は光を弾き、巨大な翼が熱風を巻き起こす。
ただ存在しているだけで、世界が歪んで見えるほどの魔力を放ち続けていた。
──そして、そのヴェル=ザルファに立ち向かっているのは、たった一人。
「くそっ……これが、エレノアを退けた存在……!」
ギルドマスターだった。
Sランク。
人類の中で最も高位の魔法使いの一人。
だが今、彼の足取りは鈍く、額には冷や汗。
魔法による攻撃は届かず、防壁は息をするたびに砕ける。
「全然……歯が立たん……!」
ヴェル=ザルファは喉の奥で低く唸り、音のない咆哮を吐き出す。
それだけで、空気が砕けるような衝撃がギルド本部内を襲う。
まるで、戦場に響く“死の合図”。
ギルドマスターは、崩れた壁を背に、ついに膝をついた。
その瞬間だった。
——ガチャリ。
崩壊しかけたギルド本部の、かろうじて形を保った扉が、静かに開いた。
そこに立っていたのは、ひとりの少女。
「……リリア……?」
ギルドマスターが目を見開く。
黒髪が揺れ、足取りは穏やか。
しかしその歩みは、どこまでも確かだった。
彼女は、瓦礫を越え、倒れた冒険者のそばをすり抜けるように歩く。
そして、ヴェル=ザルファの前に、ためらいなく進み出た。
ギルドマスターは、咄嗟に声を上げる。
「バカなっ! お前じゃ勝てる相手じゃない! 早く逃げろ、リリア!」
しかし、リリアは立ち止まらず、静かに——笑った。
「ううん、逃げないよ。だって……」
彼女のそばに、光の粒が舞い上がる。
その光は、一つの姿へと収束していく。
白い毛並み、光の瞳、空気よりも柔らかな気配。
「……この子、見たことあるよね? フィーネ」
ギルドマスターは思わず息を呑む。
目の前に現れた“小動物”
「フィーネ……?」
リリアはその横顔のまま、さらに一歩、ヴェル=ザルファへと近づく。
そして、笑った。
「ねぇ。この子って……フィーネの試練のときの子、だよね?」
ギルド本部の扉が静かに閉まり、緊迫した空気の中にリリアの声が落ちた。
リリアの肩にちょこんと乗った白い小動物。ふわふわとした毛並みに光のような瞳、気配すら空気よりも柔らかく、どこか神秘的な存在。
それが、くるんとしっぽを揺らして答えた。
「そうそう。僕が模範した竜族亜種だよ。まさか本物が出てくるなんてねぇ、偶然ってこわいね」
目の前のヴェル=ザルファは、リリアの姿を見るなり肩を震わせ、威圧感に満ちていたはずの気配が一気にしぼんでいく。
その様子に、リリアがくすっと笑った。
「また震えてるけど、どうする? バーサクでもかける?」
フィーネはあくびをしながらのんびりと答える。
「試練じゃないし、そんな必要もないんじゃない? どうせ動けないだろうし」
そのやりとりを聞いていたギルドマスターが、目を細めて二人を見つめる。
「……何者だ、あの生き物は。あの小さな体に、恐ろしいほどの魔力を秘めている……」
フィーネがくるりと跳ねて、リリアの肩から彼の視線に向き直る。
「僕? 一応“精霊”ってことになってる。でも、時代によって“聖獣”とか“神の使い”とか“世界の監視者”とか……いろんな呼ばれ方してたよ」
「私は“フィーネ”って名前をつけたけどね」
リリアが照れくさそうに笑うと、フィーネは「気に入ってるんだ」としっぽをふる。
ギルドマスターは思わず息を呑み、視線を再びヴェル=ザルファへと戻す。
その“天災”は、まるで生まれたての仔犬のように震えながら、ただただリリアの存在を恐れていた。
ギルド本部の床に深く沈む巨体。竜族亜種、天災《ヴェル=ザルファ》。
かつてその咆哮ひとつで都市を沈黙させた存在が——今、リリアの前で震えていた。
黄金に輝く瞳は大きく見開かれ、全身から溢れていた禍々しい魔力が霧のようにしぼんでいく。
後退りし、後脚をひねるようにして身を低くするその姿は、もはや威厳のかけらもない。
「……ふふ。どうしよっか」
リリアの口元に浮かんだのは、どこか小悪魔的な微笑み。
ただ立っているだけ——けれど、それだけで、天災は完全に支配されていた。
そしてついに、ヴェル=ザルファはその場に膝をついた。
高貴にして獰猛なる存在が、地を這う者のように頭を垂れ、声を震わせる。
「……我が命、差し出す……使い魔として仕えさせてくれ……。命だけは……お助けを……」
その光景を見たギルドマスターは、声にならない息を呑んだ。
「まさか……。あのエレノアを退けた天災を……少女が、圧倒している……?」
震える声が本音をさらけ出すように空気に溶ける。
そして、ヴェル=ザルファの口が再び開かれた。
「この少女の魔力量は……エレノアなど、比べ物にならぬ……。我が主となるに相応しき、絶対の存在だ……」
その言葉に、リリアの瞳が大きく揺れる。
「……ママを、知ってるの?」
リリアの問いかけに、ヴェル=ザルファは小さく頷いた。
「エレノアの娘……やはり、そうか。ならば知っている。彼女は、今も生きている」
「その居場所へと、お前を導くこともできる……主よ」
しんと静まり返った空間に、その声だけが染み込むように響いた。
リリアはしばらく黙っていたが、ゆっくりと歩を進め、ヴェル=ザルファの前に立つ。
そして——小さく、呟く。
「……うん。じゃあ、決まりだね。契約、しよう」
リリアの手が掲げられ、魔力が流れ出す。
かつて世界を震わせた天災は、その手を取るように額を地につけ、従属の印を受け入れた。
こうして、街を襲った“災厄”は、少女リリアの“従者”として幕を下ろすこととなった——。