終焉(前編)
それは、いつもと変わらぬ、澄んだ空の下で始まった。
エルムグランツの街は、朝の日差しに包まれ、活気のある声が飛び交っていた。市場では新鮮な野菜が並び、子どもたちの笑い声が広場に響く。リリアは、ギルドのテラス席で紅茶をすすりながら、その穏やかな風景をぼんやりと眺めていた。
「こんな日は……クエストもゆっくり選びたいなぁ」
そんな平和な雰囲気を切り裂くように、ギルドの鐘が激しく鳴り響く。
「緊急事態発生!ギルドホールへ、上位ランク冒険者は即時集合!」
ギルド前の掲示板に人が集まりはじめる。リリアもすぐに席を立ち、駆けつけた。
中に飛び込むと、ギルド職員たちが慌ただしく資料を手に動き回っていた。ギルドマスターの前には地図が広げられ、赤い印がいくつも打ち込まれている。
「……街道沿いの村が、次々と魔獣に襲われている……?」
リリアが目を見開く横で、アレンが低く唸る。
「この数……ただの偶然じゃないな」
「まだ街への被害はないけど、時間の問題かもしれない……!」とユージンが拳を握る。
ルーシーも表情を引き締めてうなずいた。「行こう、私たちも出る!」
すぐにギルドは緊急対応クエストを発令。Eランク以上の冒険者たちに次々と招集がかかっていく。
「ルミナスブレイブ、任務コード0-7番。街西部、防衛ライン直前の魔獣群の討伐に向かってくれ」
ギルド職員の言葉に、4人は迷いなくうなずいた。
「了解!俺たちが止めてみせる!」
「私たちで、絶対に食い止めるよ!」
緊張と決意を胸に、ルミナスブレイブは走り出す。
そして、この静けさに終わりを告げる、長く苛烈な戦いが幕を開ける——。
街の外縁部――。岩場と雑木林に囲まれた丘陵地帯に、数多くの魔獣が集まっていた。低く唸る声、足音、土煙。荒れ地の先に黒い影が無数に蠢く。
「来るぞ……!」
アレンが魔法の起動式を口にし、掌に炎を灯す。その隣で、ユージンが展開したバリアが淡く光り、ルーシーの補助魔法が3人の身体能力を強化していく。
そして、その後方で――リリアは静かに魔力を調整していた。
(ここで出しすぎたら、また疑われるかも……)
目を閉じ、深く息を吐き、制御に集中する。
戦いが始まった。
アレンの【ブレイズラッシュ】が一陣の魔獣を焼き払う。ユージンの盾が味方の背を守り、ルーシーの回復と補助が連携を支える。そして、リリアの放つ風魔法が隙間を縫うように魔獣を薙ぎ払う。
「連携、完璧じゃん!」「Eランクって……あの子たちか?」
別のパーティが遠くから驚きの声を上げる。
ルミナスブレイブの戦いぶりは、明らかに周囲の冒険者たちの目を引いていた。
「アレン、右から来る!」「任せた!」
「ユージン、後方支援お願い!」「バリア、展開完了!」
「リリア、前衛に風圧お願い!」
「了解……!」
的確な指示と判断。4人の呼吸はぴたりと合っていた。
(……みんな、どんどん頼もしくなってきたな)
リリアは笑みを浮かべながらも、油断はしない。ギリギリ“バレない範囲”で、必要な場面では力を加える。
魔獣の数は多い。しかし、4人の結束と判断力がその壁を打ち崩していく。
それはまるで、“一段階上の冒険者たち”のような戦いぶりだった。
だが、誰も知らなかった。
その背後に、さらに恐ろしい“存在”が迫っていることを。
倒しても、倒しても──敵の足音が絶えることはなかった。
ルミナスブレイブの4人は小高い丘の上で、次々と押し寄せる魔獣の群れを迎撃していた。
「これ、いったい何匹いるんだよ……!」
ユージンがバリアを展開しながら歯を食いしばる。その向こうではアレンが火炎の奔流を走らせ、ルーシーの補助魔法がひっきりなしに光を放つ。
リリアは仲間の背後に立ち、風と水の小規模な魔法を使い分け、敵の動きを制していた。
(まだ……出せる。でも、もう少しだけ隠しておきたい)
魔力制御の腕輪を指でなぞりながら、リリアは“限界のギリギリ手前”を維持し続けていた。
──だが。
視界の端で、仲間たちの疲労が確実に溜まり始めているのがわかる。他の冒険者パーティも同じだった。あちこちから聞こえてくるのは、悲鳴と息切れと焦燥の混じった声。
「おかしい……こんなに数が途切れないなんて、今までなかった……」
ルーシーが魔力切れ寸前の顔でつぶやく。アレンも額に汗を浮かべながら、次の魔法詠唱に集中していた。
「これ……終わりが見えないぞ」
ユージンの声が、重く、空気を揺らす。
それでも、ルミナスブレイブの布陣は崩れていなかった。戦いの中で築き上げた連携が、ぎりぎりの均衡を保っている。
だが、戦場全体の様子は明らかに異常だった。
「街道南の部隊、退却を開始!北東の隊も後退中!」
ギルドの連絡魔導士が叫ぶ。
次々と、周囲の冒険者たちが撤退を始めていた。
魔獣の数は減るどころか、逆に増えているようにさえ見える。
(何かがおかしい……)
リリアは小さく息を呑んだ。どこか、戦いそのものが“仕組まれている”ような、そんな嫌な感覚が背中を撫でていく。
そして――空の色が、じわりと変わり始めた。
街の中は、静かだった。
結界によって守られた石造りの建物の間を、時折風が通り抜けていく。住民たちは緊急避難命令に従い、広場や地下シェルターに避難していた。
「これで……ひとまずは安全だ」
ギルドマスターは、街の中心部に設けられた防壁魔法陣の核石に手をかざし、淡く輝く結界の状態を確認する。空間全体を包むそれは、Sランク冒険者が魔力を注ぎ続けなければ維持できないほどの強度だった。
街の外では依然として戦いが続いている。だが、この結界さえあれば、内部への侵入は防げる。少なくとも――通常の魔獣ならば。
「……おかしいな」
ギルドマスターが、眉をひそめた。空気の振動が、違っている。圧がある。明らかに、何か“異質なもの”が迫っている。
「これは……数の問題じゃないな。質が違う。これは、何か“来る”ぞ……」
その場にいた者たちが、一斉に顔を上げる。
「ギルドマスター。今の、何の反応ですか?」
問うたのは、ギルド職員のひとり。
「“敵”の魔力の総量が、急激に上昇している。あれは……ただの魔獣や幻獣の波じゃない。もっと大きな“何か”が近づいている」
その場にいたベテラン冒険者たちの間にも、緊張が走る。
結界の向こうで戦う仲間のひとり、ロキは魔導双剣の柄を強く握りしめ、戦場を見つめていた。
「……この空気、感じたことがある。あの時と同じだ」
かつて、共に戦った仲間たち――ヴァルキュリアの3人がすでに戦場に向かっている。彼らもきっと、この異変を感じているはずだ。
「来る……本当に、何かが来る……!」
誰ともなくそう呟いた瞬間、遠くの空が、濁った光に染まった。
空気の緊張が、皮膚を通して伝わってくる。
平穏だった街の中心で、誰もが思い始めていた。
これまでの戦いとは、何かが違う。
夕陽が傾き始めた空の下、戦場の空気はますます重く、息苦しいほどだった。
草地に転がる魔獣の亡骸。それでも、終わりは見えなかった。
「はぁ、はぁ……くそ、どんだけ湧いてくんだよ……!」
斧を振り抜いたCランクの冒険者が、肩で息をしながら呻く。付近にいたF〜Cランクのパーティも、すでに満身創痍。ポーションは尽き、魔力の残量も限界に近い。
「回復魔法、間に合わない……っ!」
仲間を庇いながらルーシーが叫ぶ。その後方では、ユージンが歯を食いしばって防御結界を維持していた。
「一匹一匹が、やたらと動きがいい……!」
アレンの火球が炸裂し、跳びかかってきた魔獣を撃ち落とす。だが、間を置かずに次の獣が現れる。まるで、動きに“統率”が取れているかのようだった。
「リリア!」
ルーシーの呼び声に、リリアは咄嗟に手を振り上げる。風の魔法が吹き荒れ、追撃を阻む。
(この動き……何かおかしい)
数だけではない。戦い方に、理性を感じる。
「これは……誰かが、指揮を取ってる……?」
リリアが呟くと同時に、ロキの声が岩場の向こうから響いた。
「その予感、間違ってねぇ!」
駆けつけてきたロキの双剣が、一閃で獣の頭を落とす。
「こいつら、完全に連携取ってやがる。野生の獣の動きじゃねえ!」
「じゃあ……この背後に、何かいるってこと……?」
「そうだ。しかも、それは“獣”じゃない。あいつらを操れるのは、魔獣亜種か、それ以上……」
空気が一段と冷えた。
ルミナスブレイブの面々は、互いに顔を見合わせ、無言で頷く。
敵は、ただの魔獣ではない。
そして、この戦いは、まだ始まりに過ぎなかった——。
バリバリバリバリバリ——!
空が悲鳴を上げた。
天頂を貫くような音と共に、**青空が縦に裂ける。**まるで空そのものが拒絶反応を起こしているかのような異常現象だった。
「な、なんだ……!? あの空の裂け目……!」
「魔法じゃねぇ……こんなの、魔法じゃ起きねぇ……!」
冒険者たちが次々と武器を構えるも、誰一人として冷静ではなかった。
裂け目の向こう側——そこから、地を這うような、獣とは明らかに異なる咆哮が響き渡った。
「う……あああああ……!」
「耳が……裂けそうだっ……!」
数秒後、その“何か”は姿を現した。
——巨大な黒の影。咆哮だけで街の空気を砕く存在。
街の中央、防御結界を中心とした輝きが、一瞬で吹き飛ばされる。
天災、ヴェル=ザルファ。
それが、名を持ってこの世界に顕現した瞬間だった。
空気が一変し、空も大地も震えているように感じる。
戦場からやや距離のある場所にいたリリアたちの元にも、その震動は届いていた。
「いまの音……なんなの……?」
リリアは、静かに唇を噛んだ。
アレンやユージンもその異様な空の割れ目を睨みながら、ぞくりと背筋を震わせる。
「これまでの魔獣と……何かが違う。あれは……なんだ……?」
誰も、まだその正体を知らない。
だが、本当の災厄が始まったということだけは、全員が理解していた。
(……まずい。ギルド本部の方向から……来てる?)
リリアの胸に、言いようのない不安が込み上げる。
その場で一度、大きく息を吸い込み、仲間を見つめた。
「行こう。わたしたちも、本部の様子を確認しに向かう」
「お、おう……!」
「了解!」
「なにが来ようと、やるしかない!」
ルミナスブレイブが駆け出す。その背後、未だ裂けたままの空から、黒い気配が渦を巻いていた。
——そしてこのとき、誰もまだ知らない。
これが、絶望の始まりであることを。