母が消えた日
ギルドの重厚な扉をくぐり抜け、ルミナスブレイブの四人はギルドマスターの待つ部屋へと足を踏み入れた。訓練の成果を報告するためだ。
部屋の中央には大きな机が置かれ、その向こう側に座るギルドマスターの厳格な表情が彼らを迎えた。しかし、その目にはどこか誇らしげな光が宿っていた。
「よくやった。お前たちの成長は目覚ましいな」
その言葉に、アレン、ユージン、ルーシー、そしてリリアは肩の力を抜いた。過酷な訓練の日々が決して無駄ではなかったことを実感する。
「ありがとうございます!」
四人がそろって礼を述べると、ギルドマスターは満足げに頷いた。
「だが、ここで無理をしては意味がない。明日はクエストを休み、しっかりと休養を取るように」
その言葉にユージンが驚いたように身を乗り出した。
「え、でも、せっかく鍛えてもらったし、すぐに実践で試したいっていうか……」
「そう焦るな。実力を試す機会はいくらでもある。それよりも、今は鍛えた身体を休め、魔力を安定させることが最優先だ。特に、お前たちが目指すのはFランクの枠を超えた成長だろう?」
ギルドマスターの言葉に、一同はハッとする。確かに、鍛錬で得た力を最大限に発揮するためには、回復も必要不可欠だった。
「……わかりました。明日はしっかり休んで、明後日からクエストに励みます!」
アレンが代表して答えると、ギルドマスターは満足げに微笑んだ。
「いい心がけだ。では、今日はゆっくり休め。お前たちの今後に期待している」
そうして、ルミナスブレイブの四人はギルドを後にした。
「久々にのんびりできるね!」
ルーシーが軽やかに笑いながら言うと、ユージンも大きく伸びをして賛同する。
「たまにはこういうのもいいかもな!」
リリアはそんな二人の様子を見ながら、そっと胸に手を当てた。
(私も、もっと強くならなきゃ……)
そう思いながらも、今はしっかりと休養を取ることが大事なのだと、自分に言い聞かせるのだった。
リリアが仲間たちと別れ、ギルドを後にしようとしたその時だった。
「リリア、少し話したいことがある。ついてきてくれ。」
ギルドマスターの低く落ち着いた声が、彼女の背後から響いた。
「えっ、私ですか?」
突然の呼びかけに驚きつつも、リリアは素直に頷いた。他のメンバーはすでに解散しており、彼女だけが呼び止められた形になる。
ギルドマスターは無言のまま歩き出し、リリアはその後をついていく。向かった先はギルド内に併設された静かなカフェだった。ギルドの喧騒から少し離れた落ち着いた空間で、ここなら人目を気にせず話ができる。
マスターは一番奥の席に座ると、リリアにも座るように促した。
「お前にとって、母親はどんな存在だった?」
予想外の質問に、リリアは一瞬戸惑った。
「えっと……ママは、とても優しくて……でも強くて……。私が小さい頃は、いつも私を守ってくれていました。笑顔が素敵で、どこか遠くを見つめることが多かったけど……私にとっては、世界で一番大切な人です。」
リリアはゆっくりと思い出を振り返りながら答えた。母の腕の温もり、優しく撫でる手、そして時折見せる寂しげな表情——そのすべてが、今でも鮮明に思い出せる。
ギルドマスターはしばらく目を閉じたまま黙っていた。やがてゆっくりと目を開き、静かに口を開く。
「お前が知る母親の姿と、我々が知るエレノア・エルフィスは、少し違うかもしれない。」
その言葉に、リリアの心臓がドクンと大きく鳴る。
「違う……?」
「そうだ。お前の母親は、ただの強い冒険者ではなかった。彼女はこの国で唯一のSSランク冒険者——いや、世界でも数えるほどしかいない、規格外の存在だった。」
ギルドマスターの言葉は、まるで歴史を語るように重々しく響いた。
リリアは知らなかった。自分の母親が、それほどまでに特別な存在だったことを——。
「どういうことですか……? ママは……いったい……?」
胸の奥で渦巻く感情を抑えきれず、リリアはギルドマスターをまっすぐに見つめた。
マスターは彼女の視線を受け止めると、ゆっくりと語り始めた。
「お前の母、エレノア・エルフィスは、この国の歴史の中でも最強と呼ばれる冒険者だった。その強さは、今の私の十倍以上とも言われている。」
リリアの目が大きく見開かれる。
「十倍……?」
「いや、実際はもっとかもしれない。あの頃の私たちは、彼女の本当の力の底を知らなかった。」
ギルドマスターは遠くを見るような目で語り続ける。
「エレノアは、世界にたった四人しかいないSSランク冒険者の一人だった。他の三人もまた規格外の実力者だが、エレノアは別格だった。まるで、彼女だけが異なる次元にいるかのようにな……。」
リリアの手がぎゅっと握りしめられる。母の強さを誇りに思う気持ちと、知らなかった事実に対する戸惑いが入り混じっていた。
「では……ママはどうして、冒険者になったんですか? そもそも、どうしてこの街に……?」
ギルドマスターは少し考え込み、ゆっくりと息を吐いた。
「それについても、話すべき時が来たようだな——」
こうして、リリアは母の過去について、さらに深く知ることになるのだった。
リリアはギルドマスターと向かい合い、彼の口から語られる母の過去に耳を傾けていた。ギルドマスターの表情はどこか懐かしげでありながらも、わずかに複雑な色を帯びている。
「お前の母親……エレノア・エルフィスがこの街に現れたのは、お前を身ごもっていた時だった。」
リリアは驚いた顔を見せる。母がこの街に来たとき、自分はすでに母の中にいたのか。
「彼女は、どこから来たのか、自身の過去について多くを語ることはなかった。ただ確かなのは、この街に着いた時、すでにお前を宿していたこと、そして、たった一人だったということだ。」
リリアはハッとする。父の存在について、母が口にすることはほとんどなかった。幼い頃も、ただ「ママとリリアが一緒なら大丈夫」と笑顔を向けられるだけだった。
「出産後、彼女はしばらくの間、育児に専念していた。お前のことを大切にしながら、ひっそりと暮らしていたんだ。しかし、一人で子を育てるには、生活のための収入が必要になる。そこで彼女はギルドに所属することを決めた。」
ギルドマスターは深く息を吐き、ゆっくりと続けた。
「だがな……彼女は最初から、規格外の強さを持っていた。新人冒険者として登録したにも関わらず、彼女の実力はすぐに周囲を驚かせた。そして、わずか8ヶ月でSランクに到達した。」
リリアは思わず息を呑む。Sランク——それはギルドでも限られた者しか到達できない高み。しかも、通常なら何年、何十年とかかる道のりを、母はたったの8ヶ月で登り詰めたというのか。
「前代未聞の実績だった。普通、冒険者は経験と鍛錬を積んで徐々に強くなっていく。だが、エレノアは最初から別格だった。彼女にとって、ランクの概念すら意味をなさなかったのかもしれない……。」
ギルドマスターの言葉には、尊敬と、そしてどこか恐れのような感情が滲んでいた。
「お前が知っている母親の姿は、優しくて穏やかだったかもしれない。しかし、俺たちが見たエレノア・エルフィスは、まるで伝説の戦士のようだったんだ。」
リリアは、母の圧倒的な強さを知りながらも、自分に向けられた優しい笑顔を思い出す。彼女にとっての母は、どんなに強くても、ただの「ママ」だったのだ。
ギルドマスターはリリアの表情を見ながら、静かに言葉を紡いだ。
「エレノアがこの街で過ごした日々は、穏やかなものだったかもしれない。だが、彼女の強さが、世界から無視されることはなかった……。」
リリアの胸の奥に、母の知られざる過去が少しずつ刻まれていく。
カフェの静寂の中、ギルドマスターはゆっくりと口を開いた。
「この世には“天災”と呼ばれる脅威が存在する。」
リリアは聞きなれない単語に眉をひそめる。
「天災……?」
ギルドマスターは頷き、真剣な表情で続けた。
「彼らは基本的には人間には興味を示さない。しかし、一度矛先が向けば、一国が滅ぶレベルの破壊をもたらす。」
「そんな存在が……?」
「今まで人間が生き延びてこられたのは、単に奴らが気まぐれだっただけだ。」
リリアは言葉を失った。国を滅ぼすほどの力を持つ存在が、この世界には確かにいるということ。その事実が、恐怖として胸に刻まれる。
ギルドマスターは少し間を置き、さらに言葉を続けた。
「当時、エレノアならば討伐できるのではないかと、世界中から期待が寄せられた。彼女の圧倒的な強さを考えれば、それも当然だった。」
リリアの母、エレノア・エルフィスは世界の希望だった。
「そこで、世界に散らばるSSランクの冒険者たちが集まり、4人で“天災”討伐に向かうことが決まった。」
リリアは息をのんだ。SSランク……それは、この世界に4人しかいない最強の冒険者。
「そして、その戦いに俺も同行した。」
「え……?」
ギルドマスターの言葉に、リリアは驚いて顔を上げる。
「俺はSランクだったが、防壁魔法に関しては他のSSランクのメンバーよりも強固な防壁を展開できた。だからこそ、この討伐戦に起用された。」
リリアは思わず息を呑む。
「つまり……マスターも、その戦いを目の当たりにしたってことですか?」
「……ああ。そして、俺たちはそこで理解したんだ。俺たちがどれほど無力だったのかをな……」
討伐対象は『天災・竜族亜種【ヴェル=ザルファ】』。
ギルドマスターは静かに語り始めた。
「俺たち4人は、世界に散らばるSSランクの冒険者として、天災討伐のために集められた。だが、実際にはエレノアの強さが桁違いでな……。まぁ、俺はSランクだったが。」
リリアはギルドマスターの話を静かに聞きながら、母の圧倒的な強さを改めて実感する。
「そして、俺たちは天災の元へ辿り着いた。そこには、巨大な竜族亜種ヴェル=ザルファがいた。しかし——問題はそこではなかった。」
ギルドマスターは苦い顔で続ける。
「ヴェル=ザルファの背に、“羽の生えた人物”がいたんだ。まるで天災を支配するように、悠然と竜の背に座っていた。」
「……天災を支配?」リリアは思わず口にする。
「ああ……。そいつはまるで、ヴェル=ザルファが自分のペットであるかのように振る舞っていた。そして——そいつは突如、エレノアに向かって手を伸ばしたんだ。」
その瞬間、ギルドマスターの表情が険しくなる。
「エレノアが抗う間もなく、まるで何かに引き寄せられるように、あっという間にその人物の元へ引き寄せられた。そして——そいつは何かを呟いた。しかし、それは俺たちには聞こえなかった。」
「……母は、何か言われたんですか?」
「わからない。ただ、ほんの一瞬だけ、エレノアの表情が変わった気がした。そして——その直後だった。エレノアが、消えたんだ。」
「消えた……?」
「ああ、何の前触れもなく、一瞬で。」
リリアは信じられないように目を見開く。
「俺たちは何が起きたのか理解できなかった。そして、その“羽の生えた人物”は、俺たちには一瞥もくれずに、ヴェル=ザルファと共にその場を去った。」
「……」
「それ以来、天災は人の前に現れていない。そして、人々はあの羽の生えた存在を——」
ギルドマスターはリリアを真っ直ぐに見据えて、静かに言った。
「“魔王”と呼ぶようになった。」
「お前は……母親が消えた理由を知りたくはないか?」
リリアはギルドマスターの言葉を受け、思わず拳を握りしめた。
「……知りたいです。」
その言葉は、自分でも驚くほどに力強く、迷いのないものだった。
「ママがなぜ消えたのか、何があったのか……知る必要があります。」
ギルドマスターは静かに目を閉じ、頷いた。
「そうか……ならば、お前はこれから“真実”を知る覚悟を持たなければならない。」
リリアの胸の内で、さまざまな感情が交錯する。
幼い頃の温かな記憶。
母の優しい笑顔。
そして——彼女が忽然と姿を消した日。
「……私は、もっと強くならなきゃいけない。」
リリアの瞳には、揺るぎない決意の炎が宿っていた。
ギルドマスターはその姿を見つめながら、小さく微笑む。
「お前は確かにエレノアの娘だな。」
その言葉を胸に刻みながら、リリアはゆっくりと立ち上がった。
母の真実を知るために——
そして、いつの日か再び会うために——
新たな決意を胸に、リリアはギルドの扉をくぐり抜けた。