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水槽  作者: 黒井空巣
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いつか鶴を折ろうか

 

 彼の首筋にキスすると、柔らかい和紙のような感触がした。


 彼の着ている派手めなジャケットと迷彩柄のズボンと、それからパーマのかかった長い茶髪。そういうのをひとつひとつ剥がしていったリアルな感触は、さながら和紙であった。


 ああ、たしかに。恵美は彼に聞こえないよう心の中で独りごちた。だって彼は恵美の2倍も歳をとっているのだ、肌は嘘をつけない。別に肌以外が嘘だと言いたいわけではないが、唇で感じたその感覚には妙なリアルさがあった。


「いい?」

「いいよ」


 短い会話で、するすると恵美の服が解けていく。リードされる、というのは自分が女であることに甘えているようであまり好きでは無かったが、こうも年が離れていると安心して甘えられる。


「気持ちよさそう」

「うん、気持ちいい」

「良かった、えみちゃん気持ちいいの」


 ふふ、と彼が笑う。まるで愛猫家が猫を愛でる時のような笑顔が場違いな気もして、でも嬉しかった。


 彼には妻がいる。聞いたのは、2回目に会った時だったろうか。

 奥さんがいちばん大事で大好き、でもセックスはしたいのよね。そう話す時の彼の顔は、今度は歴史の教師のようだった。文明や文化が築かれて、でも戦争で壊されてっちゃうのよね、ねー。なんて。あっけらかんと授業で語っているような、そんな顔をしていた。


 こうして彼が、夜な夜なバーに出向いて――それも、男女の出会いが入り乱れるような、ちょっと()()()な社交場だ――遊んで回っていることを、奥さんは知っているだろうか。たぶん知らない。恵美はまだ結婚をしたことがないし、したいとも別段感じないが、まあそんなもんかと思う。


「あー、もう、ほんと良いケツしてるね」

「ねえ、言い方」

「だってさあ、好きなんだよコレ」

「もう……」


 彼は、チャラチャラしている。五十路にもなってしょっちゅう酒場に入り浸って、タバコを吸って楽器を弾き、髪を伸ばして、色んな女性と抱き合って。()()()()()()なんて死語だとは思いつつも、そんな死語がぴったりな男だ。


「ねえ、俺たちさ」

「ん?」

「めちゃくちゃ相性良いよね」

「そうだね……んっ」


 そう、恵美と彼は、怖くなるほどに相性が良かった。少なくとも恵美はそう思っている、彼はほかの女にも同じようなことを言って回っているかもしれないが。

 彼のが全て収まると、体温が3度くらい上がったような気がする。彼に呼応するようにして、身体がぐーっと熱を帯びていく。


 もともとは、ひとつだったんじゃないかとすら思う。恵美と彼はどこかで、ひとつの形――それは例えば岩や木のような、じっと動かない何かのようなもの――で存在していたのに、ちょっとした掛け違えで今こうして、別々の生き物としてセックスをしている。


「あー、めちゃくちゃエロい、良いよ」

「うん……」


 首筋にもう一度キスを落とす、やっぱり和紙のような肌触り。自由気ままに生きているように見せかけて、彼もきっと必死に働いたり、愛し合ったり、暮らしたりして私の2倍の年月を生きてきた、証だった。

 彼とキスやセックスをすることに罪悪感はなかったが、この時だけはちらと、顔も名前も知らない妻の存在がよぎった。きっと妻は彼の首筋がぴんと張ってみずみずしかった頃を知っているのだ。それが年を追って経験とともに緩んで、数え切れないほどに皺が入っていくのを、一緒に感じてきたのだろう。

 性器を擦り合わせるよりも、何かずっと悪いことをしているような気になった。


「帰らなきゃ、もう2時だ」

「ほんとだ」


 彼は決まって2時には帰ってしまう、帰るところが決まっているから。恵美にも自分の家はあるが、帰るところはその時の気分で決められる。帰ったっていいし帰らなくたっていい、仮に帰ろうと決めて自分の家のドアの前まで来たって、思い直して街へ繰り出したっていいのだ、彼とは違って。

 溶けるほど抱き合っていても、その溝だけは埋まらない。


「じゃあね」

「じゃあね、また」

「うん、また来るよ」


 彼を見送って、始発を待つ。街でその時限りの誰かと酒を酌み交わしたり、1時間後にはもう思い出せないような話で笑いあったりしながら。


 家の最寄り駅に着く頃になっても、空はまだほの暗く深い、青のような黒のような色をしている。


「さむっ……」


 ぶるりと身体が震えて、思わず声が出た。イヤホンを耳にはめてから、マフラーに顔を埋めていそいそと帰路に着く。酔いが覚め始めた足はずっしりと重いが、キンと冷えた風になぜか浮き足立ってくる。


 バックミュージックは、東京事変の「女の子は誰でも」。まだ誰も起きていない街でひとり音楽を聴いていると、まるで映画のエンディングのように思えてくる。この時間が、恵美は好きだった。

 歌詞は特に聞いていない。オーケストラと、それに似合っているんだかなんだか分からないような女性の声が好きなだけ。


 街灯の明かりはまだ消えない。彼のことが好きなんだろうか、誰もいない路地を歩いていると、考えたってどうしようもない自問自答が浮かんでは消えていく。


 店で会えばまっさきに彼の隣に座りに行くし、こうして帰り道に今日彼と話したことを思い浮かべる。ということは、ある程度は好きなんだろう。だが、彼が妻への愛を語ったり、別の女と飲んでいるのを見たりしても、別段なんともない。ということは、ある程度よりは好きではないということだ。


「ふう……」


 そこまで行って、恵美は考えるのを放棄する。彼は彼で、恵美は恵美だ。どうしてか、人は男女のペアに名前をつけて安心したがる。恵美も例に漏れず、彼のと関係に名前を付けたがっているだけだということに気がついて、ひとくちサイズのため息がこぼれた。


 マンションの明かりがぱららら、と消えていく。ふと東の方を見やると、ビルとビルと合間から空が黄色くなり始めていた。


 朝が来る。


 きっと、彼との関係はそう長くは続かない。彼が死んだら、あの首筋の皮膚だけでいいから欲しいな、と思う。

 しわしわの、柔らかな紙1枚になってしまった彼を見たら、この感情の名前も見つかるかもしれないから。


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