第6夜:花嫁修行
九十九家には本邸から離れた場所に小さな洋館が建てられている。西洋の文化を学ぶためだけに造られたそれは滅多に日の目を見ることはなかったが、美夜が婚約者となって以降、中から少女達の声が聞こえてくるようになった。
踵の高い靴が不規則に床を弾く音に合わせ刺繍が施された衣服が揺れる。絹糸で織られた真っ白な生地が光沢を放ち、折り重なった裾が透けるような花びらを造っていた。
誰もが振り返る美しく繊細な衣装。だからこそ、これを着用する者には相応の所作が求められる。当然、今まで和装しかしたことのない美夜も例外では無かったが、経験したことのない不安定な足元に彼女の心は半ば諦めの境地入っていた。
「無理無理無理!」
「弱音を吐かない!心配しなくても慣れます。洋装のご婦人方はちゃんと優雅に歩かれてるでしょう」
「そんなこと言われても……」
玉紀の叱責に壁に手をついたまましょんぼりと項垂れる。
可愛い見た目に反して彼女は立派な教師だった。玉紀が猫の妖怪だと知り喜んだのも束の間、流れるように大量の衣服をかわるがわる着せ替えられ靴を履き替えさせられ、全てが済んだ頃には体力の限界がきていた。着替えだけであんなに大変な思いをしたのは後にも先にもこれっきりだろう。
この数日で歳が近く溌剌とした彼女は指導時間以外では気のいい友人となってくれた。九十九家に住う者の苗字は共通しているため彼女のことは「玉紀」と下の名前で呼んでいる。
玉紀は一緒にお菓子を食べたり読み物を貸してくれたりと日常のことから九十九家に住まう妖達への挨拶周りまで付き合ってくれた。
これだけなら美夜も気が楽だったが、あくまで彼女はお世話係。指導中の彼女はまるで別人だった。
深緑の婦人服に身を包んだ玉紀は容赦なく授業を詰め込み付きっきりでレディとしての嗜みを仕込んでくる。当主直々に教師役を任命されただけのことはあると言うことだろうか。洋館に連れてこられてすぐ「次の会合には必ず間に合わせます」と言った彼女の後ろには鬼神が見えた。
幸いなことに武家の娘として最低限の礼節は備わっていたが、問題は西洋文化だ。
テーブルマナーは一から覚えなければならなかったし、このヒラヒラした服も靴も着ているだけで精一杯。歩くことさえままならなかった。
「こんな格好で踊るなんて無理よ。今回は着物にしましょう?」
「駄目です。先伸ばしにしても仕方ありませんし、それに此度はダンスを踊らなくても結構だとお伝えしましたでしょう?美しく胡月様のお隣にいることができれば十分です」
逃げ道を確保しようとするもすげなく却下されてしまった。本当に本番までに間に合うのだろうか。幼少期から行儀作法の勉強は苦手だったが、大人になってからもまた悩まされることになるとは。朝から晩まで練習に時間を注ぎ込んではいるが、完璧にこなすにはもう少し猶予が欲しい。
「うう……」
「仕方がありませんね。では休憩にしましょう」
弱々しい声に玉紀が眉尻を下げて椅子に座る許可を出した。両手で転ばないように気をつけながら席に着くと、机に突っ伏した。
「うーん。本当に本番までに様になるかしら?」
もう期日まで5日しかないのだ。
支えなしで立つことがやっとの状態に不安が溢れ出す。おおかた洋装の胡月に合わせろということだろうが、無理な格好をして恥をかく可能性を考えていないのだろうか。
「胡月様に堂々と意見を申された美夜様は何処へ行かれたのですか」
だらしない姿勢で溶けている美夜を揶揄いながら玉紀が向かいの席に腰を下ろす。
「もう、皆さんその話ばっかりして。そんなに揶揄わなくてもいいじゃないですか」
「申し訳ありません。でも、これでも皆喜んでいるのですよ」
唇を尖らせるも玉紀が流すように微笑む。
瓢矢によって語られたあの客間での出来事はあっという間に屋敷中に広まった。
美夜は恥ずかしさと仮にも当主に働いた不敬に冷や汗を流したものだが、なぜか初めて会う妖怪は皆、挨拶代わりに楽しげにこの話を持ち出すのだ。
「胡月様は色々と思惑の交差する渦中にいらっしゃいますから素直に考えを言って頂ける方はありがたいのですよ」
玉紀が長く息を吐いた。
「この屋敷にいる妖の殆どは胡月様を慕っている者たちですが、外部へ目を向ければまた違います。九十九家の中にはまだお若い彼の方を排除しようと画作する者もいるのです。その為か、以前婚約者候補として屋敷に上がり込んできたお嬢さん方もクセが強くて……」
「そう、なの?」
「明らかな悪意のある方もいましたし、そうでなくとも薬や妖術を使ってこう、いろいろと」
玉紀が顔色を悪くして額に手を当てる。
思い出しただけで頭を抱えるその姿に彼女の苦労が見て取れた。
「身分があるといろいろと大変ねぇ」
その混沌に意図せず組み込まれてしまったと思うと気が重い。胡月や瓢矢とあの日以来会えていないことも不安材料だ。
「心配ご無用です。わからないことがあれば私がお教えしますから」
「じゃあ会合にも一緒に行ってくれる?」
「いえ、それはできかねます」
きっぱりと断られた。悲しい。
碌に会話もしていない胡月が隣にいても全く安心できないのだが本番は彼と二人きりだ。
せめて瓢矢が側に付いてくれたら良かったのだが、生憎予定があるとこちらも断られている。
美夜が参加する会合は妖を中心に明治政府の要人も招かれている。果たして下級武士の娘で太刀打ちできるのだろうか。自滅するか一刀両断される姿しか浮かばないのだが。
「不安を解消するには練習あるのみです!頑張りましょう!」
「うぅ、はい」
渋々立ち上がって歩行練習へ戻る。
未来の自分が悠々と歩けることを願って震える足を叱責した。
会合当日、夕陽が水平線に沈む時刻に美夜は白百合のような婦人服を身に纏い九十九家の門前で馬車を待っていた。
蝶結びの髪飾りが心地よい風に踊る。
衣装はやっと歩けるようになったあの日に着ていた最も動きやすいものを選び、胸には母から貰ったお守りと玉紀から与えられた勾玉を忍ばせている。出来るだけの努力はした。玉紀による懸命な指導の元、付け焼き刃ながらなんとか様にした作法を胸に頑張るしかない。
「待たせたな」
胡月に後ろから声をかけられる。
結局今日まで顔を合わせることは無かったが泣き言ばかり言ってられない。大きく息を吸い心を整える。エスコートしてもらおうと手を差し出してーー胡月の姿が燕尾服では無いことに気がついた。
「え、えっ?洋装じゃないんですか?」
闇を溶かしたような黒い羽織と袴。
狐の尾が描かれた家紋が描かれているそれは確かに正装だが想像していた姿とはまるで違う。
「あれは首元が苦しくて気にいらん」
「ええっ!じゃあ私がこの服着る意味あります!?」
悪気もなく言われた言葉に思わず言い返す。
玉紀に扱かれた日々は何だったのだ。
「さてな、ほら馬車が来たぞ」
胡月は言い訳もせず到着した馬車にさっさと乗り込んでしまう。会合前から頭が痛い。
腹立たしさと不安で顔を顰めながら馬車の踏み台へ足をかける。
(この靴で上がれるかしら)
細い足場にそう一瞬躊躇すると、美夜の体が客車へ引き上げられ胡月の胸で抱き止められた。
「グズグズするな」
「は、はい」
肩口から白檀の香りが漂う。
触れ合ったことの無い異性の体温に顔に熱が集まった。
両親以外に抱きしめられたるなんて初めてのことだ。美夜は気恥ずかしさからすぐに胡月から離れると、熱を冷ますように夜の帳が下りる空を見上げた。