第三夜:追憶
十年ほど前まで美夜は武士の娘であった。
母は病弱な体質で、父は仕事で家を空けることが多い人であったが、美夜は食うに困ったことも寒さに凍えたことも無く大切に育てられてきた。世間一般で指す、恵まれた子どもだったと言えるだろう。
「母上!今日はこの本を読んでください」
美夜が両手いっぱいに本を抱えて戸を開くと、布団から起き上がった母が笑顔で迎え入れた。
「あらあら、そんなに沢山持って」
「だって選べないんです。竹取物語も桃太郎もはちかづき姫もみんなみんな面白いんですもの」
枕元に父が買ってきてくれた赤色の本を下ろし、母に抱きついた。
暖かい体温がゆっくり布越しに伝わってくる。
「甘えん坊ねぇ。ほら、貸してごらんなさい」
一番上に置かれていた本を手に取ると優しい手が紙を捲る。「むかしむかしーーー」鳥の囀りのように心地よい声で御伽話が語られる。
母の愛を感じられるこの時間が美夜は大好きだった。
(今日は父上が帰ってこられる日だ)
御伽話に耳を傾けながらそんなことを思う。
寡黙な父はきっと、いつものように無愛想な顔で玄関が埋まるほどの土産を持ってくる。そして母上に買いすぎだと叱られるのだ。
夕方のことを考えて美夜は「ふふっ」と笑みを溢した。
不自由の無い暮らしに、尊敬できる大好きな両親。もちろん、武家の娘として相応しくない振る舞いは叱られたし、お稽古だってこなさなければならない。それでも、この幸せはいつまでも続くと思っていた。
穏やかな生活が崩れ始めたのは、母の病気が悪化してからのことだ。
雨の酷く降る日だった。
元々天候に左右されやすい体質だった母が熱を出した。いつものように数日で下がるものと考えていたが、なぜか体調は刻一刻と悪くなっていく。
主治医に連日診察に来てもらっても改善の兆しは見られず、美世は不安な気持ちで母の看病を続けた。
額の汗を拭い、水や食事の介助をし、手を握って神に祈りを捧げる。
流石に食事の支度は難しいため、家の手伝いをしてくれている婆やに頼んでいたが、仕事をしている父の分も自分が頑張るのだ。そう思って懸命に働いた。
それから数日後、あの日美夜は「努力してもどうにもならないことがある」と初めて知った。
医者から最終宣告を受けたのだ。
「持ってあと数日だ」という言葉が頭の中でぐるぐると回る。
ようやく意味を理解した美夜は泣きじゃくりながらも父に伝えなければ、と思った。
婆やに頼んで文を急いで書いてもらわなければ。暫くかかる仕事だと言っていたが父のいる場所は家からは遠くない。大丈夫だ。きっとすぐに帰ってくる。
「必ず帰るようにお伝えください!」
深々と頭を下げ、祈るような気持ちで飛脚を見送った。
翌日の朝早くに玄関の戸を叩く音がした。
(帰ってきてくださった!)
そう思って一目散に走り出した。
勢いよく開けた扉の前には若い男が1人立っていた。たしか最近父の部下になった青年だ。
男が申し訳無さそうに差し出した手紙を掴み取り、急いで書面に目を通す。
季節の挨拶から始まり、丁寧な筆跡で書かれた文章が長々と綴られている。母と美夜を気遣う言葉が羅列しているが、結局のところ伝えたい事実はこのひと言だ。
「帰れない……」
信じられない言葉に手紙を破り捨てたい衝動に駆られる。心配そうにこちらを伺う青年の態度すら煩わしくて、お礼も言わずに勢いよく戸を閉めた。
泣いてはいけない。母に心配をかけてしまう。握りしめた手紙を手に滲む涙を拭って寝所へ戻ると、母は全てわかっていたかのように静かに笑みを浮かべた。
「お父様を、責めてはいけませんよ。彼の方は、自分の、成すべきことをされているのです」
息も絶え絶えとしながら告げられた言葉に下唇を噛む。
美夜にはわからなかった。
見捨てられたというのにたおやかな表情をする母も、家族よりも仕事を優先した父も。大人の考えることなど、何も理解できなかった。
それから2日後の日暮に母は静かに息を引き取った。
それからというもの、美夜は父を避けるように生活をした。
婆やは父との間を取り持とうとしてくれたが、応じるつもりなどなかった。
父は元々あまり口数が多い方では無い。美夜が話さなければ当然のように親子の間に会話は生まれなかった。冷え切った空気に婆やが困惑していたのは知っている。それでも父の所業を許すことはできなかった。
さらに美夜の生活が一変したのは大政奉還が起こってからのことだ。
江戸が東京に名を変えて、武士の特権が奪われて、世の中は大変な騒ぎになった。
まだ幼い美夜にはよくわからなかったが、父や婆やの慌てようからとんでもないことが起こったのだと感じていた。
「戦に向かうことになった。お前はこれから商家の子として生きなさい」
父の言葉に呼吸が浅くなる。
厳かな態度で部屋に連れて行かれ、叱られるかと思っていた美夜は突然の事態に動揺を隠せない。
「そ、それは、どういうことですか……?」
「先程の言葉が全てだ。生きて帰れる保証が無い以上、お前を誰かに預けねばなるまい。贔屓にしている店の人間には話をつけている」
父の発言がのしかかり体が鉛のように重くなった。
「どうしてですか。どうしていつもそうなのです!今も!母上のときも!!そんなに仕事が大切ですか!?」
「私のやる事は変わらん。為すべきことを成す。それだけだ」
父が部屋を去った後、美夜は塞ぎ込んでわんわんと泣いた。婆やに慰められても、御伽話を読んでも勝手に涙が流れてくる。
部屋に籠城しようと現実は変わらない。
父は私と母を捨てたのだ。家主が居なくなればこの屋敷も手放すことになる。
思い出も、何もかも、あの人は要らないと判断したのだ。
出立の日。
雪がチラつき凍てつく風が吹く中、これからお世話になる店の店主と共に父を見送った。
「行ってくる」
そう言った父に美夜は何も返さなかった。
ただ、父の姿が見えなくなるまでその場から動かなかった。
「あっしは昔、暴漢に襲われそうなところをお父上に助けてもらいやしてね、だから、その、彼の方の仕事は確かに誰かのためになっておりますよ」
無言を貫く美夜の背を店主が押す。
気遣いとわかっていても慰めの言葉が憎らしい。だって、私達のことは助けてくれなかった。他人ばっかり構って、家族を蔑ろにして、そんなの酷い。
嫌いだ。母上を看取ることも出来なかったあの人が。嫌いだ。私を置いて行ったあんな男なんてーーー。
「だいっきらい……」
うつらうつらと目を開けると、木目の天井が目に入った。体を起こして周りを見渡すと、見覚えのない物ばかりが置かれている。自分の部屋ではない。
久遠邸にお使いに行って、お茶をして、そうだ、その後化け物に襲われたのだ。
自分の身に起こったことを思い出していると、障子がスッと開いた。
「お目覚めですか?」
正座をした少女がこちらを見ている。
整えられた髪型も皺のない着物も人間と変わらない。しかし、琥珀色をした瞳と頭上に見える獣の耳と、曲がった尾っぽが自分達とは違う生き物だと物語っていた。