第一夜:はじまりの日
カツンカツンと歩く度に板張りの床が音を立てる。
目の前を歩く背広の男は気にした様子も無いが、美夜はどうにも落ち着かず視線を彷徨わせ歩幅を小さくした。
履き物を脱がずに家に上がるという感覚は不可思議で少しだけ不安になる。
今まで洋館という建物に入ったことなど一度も無いのだから仕方がない。と自分を励ますが、廊下の硝子窓から見える寺子屋帰りの子供達や物売りの姿に帰りたい気持ちが沸々と湧き上がってくる。
(本当ならとっくに帰路に着いているはずなのに……)
狂わされた予定に思わずため息を溢し、風呂敷を持つ指に力を入れた。
美夜が今日この洋館に訪れた理由は何てことは無い。店の仕事の一環だ。
お世話になっている和菓子屋の饅頭をえらく気に入った華族がいるというので、多少礼節のわかる自分に白羽の矢が立ったというだけのこと。
美夜としては屋敷の入り口で使用人にでも渡して早々に帰るつもりだったのだが、何のつもりか屋敷の主人に呼び止められてしまったのだ。
やんわりと断るも聞き入れてもらえず、お茶の一杯だけならと最終的には美夜が折れる形になった。
(私みたいな町娘に興味を持つなんて変わった華族様)
ぼうっと手元に視線を移すと着物の袖にほつれを見つけて、指で内側へ織り込んで隠した。こんなことならもう少し上等を着てくれば良かった。
別段、汚い格好をしているつもりも自分を卑下しているつもりもない。一般市民の普段着なんてこんなものだろうし、顔だって絶世の美人ではないが一応和菓子屋の看板娘を任されている。
何より母親譲りの艶のある黒髪は我ながら自慢で、毎日綺麗に結い上げていた。しかし、自分が金持ちの青年に目をかけて貰える程の顔立ちをしているとは到底思えなかった。
玄関先で美夜に待ったをかけた屋敷の主人は柔和な笑みを浮かべて久遠と名乗った。
色白の肌に涼しげな目元を持つ彼は歌舞伎絵に描かれた役者のようで、美夜は「近所のおばさま方が会ったら黄色い悲鳴を上げるだろうな」という感想を持った。
年頃の娘である美夜も同様の視線を向けてもいいものだが、残念ながらそう言ったことにはあまり興味がない。周回からいい加減良い人はいないのかとせっつかれるのが最近の悩みだった。
「さぁ、こちらへどうぞ」
美夜があれこれと考えているうちに目的の部屋へ到着したらしい。
久遠が木製の扉を開くと花の蜜のような甘い香りが漂ってきた。誘われるままに足を踏み入れると、その光景に思わず感嘆の声が溢れる。
花を模したランプが部屋を照らし、薔薇を生けている壺の金模様が光を反射して煌めいている。机には高級品であるカステラと取ってのついた湯呑みが行儀良く美夜を迎えていた。
「すごい......!」
「ふふ、やっと笑って下さいましたね」
久遠の言葉に心臓が跳ねる。
しまった。心情が態度に出ていたらしい。お店の代表として使いに来ておきながらお客様の気分を害してしまった。
「申し訳ございません。その、私......」
「いえいえ、そんなつもりで言ったわけでは無いんです。こちらこそ急なお誘いをしてしまいすみません」
頭を下げる美夜に久遠は慌てて答えると、僅かに赤く染まった頬をかいた。
「恥ずかしながら、ひと目見て貴方ともっと親しくなりたいと思ってしまったのです。どうかお許しを」
まさか。と思い目を見開いたが、すぐに当たりをつけて彼の言葉に納得した。
(こんな男性なら女性が放って置くはずないわ。きっと口説くときの常套句ね)
美夜はにこりと商売用の笑顔で返事をした。
「ありがとうございます」
久遠は満足そうに頷き美夜の側の椅子を引いた。西洋の作法はわからないが、座れということだろう。
腰を下ろすとカステラという黄色い宝石が目に映った。
以前食べたのはいつ頃だっただろうか?
確か数年前に店の主人が京都土産として買ってきた物をみんなで分け合ったのが最後だ。
どら焼きとは違う、ふんわりとした食感と口の中に広がる上質でしっかりとした甘さを思い出して唾を飲む。
相手が誰であれこのお菓子達に罪はない。
美味しいお菓子の味を知っておくのも仕事のうちだ。美夜はそう考えると上機嫌で机の上に手を伸ばした。
ポーンという音が会話を遮る。
視線を向けると壁に掛けられている時計の針が四の文字を指し示していた。
お茶一杯だけのつもりがチョコレートにクッキーと運ばれてくる真新しいお菓子を一つ、また一つと口に運んでいる間に随分時間が経ってしまった。
店のおばさんから帰りに夕飯の材料を買ってくるように言われていたのに、これでは間に合いそうにない。
「あの、すみませんが私そろそろお暇させていただきます。今日はありがとうございました」
居住まいを正していそいそと帰り支度を始める。席を立つと久遠がもの寂しげな声で引き留めてきた。
「そんな、まだよろしいでしょう?」
「いえ、もうこんな時間ですし、これ以上お邪魔していては店の者に叱られます」
そう言って別れの挨拶をしようとした美夜の腕が乱暴に掴まれた。
美夜は骨が軋む音が聞こえそうなほど強い力にタタラを踏んで息を呑む。
突然奇行に出た久遠を睨みつけると、先程までとは程遠いしゃがれた声が聞こえてきた。
「あと少し、あと少しだけ......」
呪文のように呟く久遠の瞳は灰色に曇り爽やかだった笑顔は引き攣っている。
異常な状況に身の危険を感じて腕を振り解こうとするがびくともしない。
いったいこの優男のどこにこんな力があるというのか。早く、早く逃げ出さなければと気持ちばかりが急く。
「本当に帰ります!離して下さい!!」
「なぜ、何故だ。ナゼ効かない!!」
叫ぶ美夜の両肩が、水分が抜け骨の浮き出した手に鷲掴みにされる。見上げた久遠の顔は皺だらけで、耳元まで裂けた口からは鋭い牙が伸びていた。
人間とは思えないその形相に引き攣った悲鳴が喉の奥で鳴る。
「ひっ……!」
「効かぬというなら仕方がない。あのお方へ献上する前にこのまま喰ろうてやるだけだ!!」
苛立ちに駆られた化け物は怒号を上げ美夜の体を勢いよく突き飛ばした。大きな口が開かれ不揃いの牙と二枚に裂けた長い舌があらわになる。
美夜は必死で立ち上がろうともがくが、地に打ち付けられて腰の抜けた体は言うことを聞いてくれない。
足は絡れ、逃げることも叶わず、化け物の腕が命を刈り取るために振り上げられる光景をただ見つめるしかなかった。
ああ、自分は今から死ぬのだ。と思った。
早鐘を打つ心臓とは裏腹に不思議と美夜の頭は冷静だった。
衝撃に備えてきつく瞑った瞼の裏に両親の姿が映る。まだ何も知らず、幸せだったあの頃の記憶。明日からも変わらない日々が続くと信じて疑わなかった。
どうしてこんな事になってしまったんだろう。
特別な幸せを望んだことはない。母がいて父がいて、笑って、泣いて、普通の暮らしをしていたかった。
それだけなのに、幸せはいつも突然奪われてしまう。
美夜は無意識のうちに懐の御守りを握りしめた。その時である。
「間一髪、と言ったところか」
若い男の声が響く。
目を開くと同時に黒い閃光が走り、久遠の地を這うような呻き声が聞こえた。
割り入ってきた男の姿に隠されて化け物が美夜の視界から消える。
黒い。というのが正直な感想だ。
髪も着物も太刀さえも黒ずくめの男は黒い塊に見えた。
男は刀に付いた血を振り払うと眉間に皺を寄せてこちらを一瞥する。
冷たい視線を向けられ肩が跳ねた。
男の態度は気遣いのカケラもないものであったが、確かに美夜はその瞬間、彼の背に気高い王の風格をみた。
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