閑話 月が綺麗ですね
若干の肌寒さを覚えうっすらと目を開くと、白い絹糸が視界に入り込んだ。
──ああ、もう朝か。
ベッドに横たわったまま、アンジェリカはそっと白い絹糸に手を触れる。すっと指が通るサラサラの髪。
アンジェリカは生まれたままの姿で半身を起こすと、隣で寝息をたてているソフィアの頬を指でつついた。
「……ん……んん……」
よく寝るお嬢ちゃんだこと。まあ、割と激しかったから仕方ないか。お嬢ちゃんには刺激が強すぎたかしらね。
アンジェリカは裸のままそっとベッドを降りると、脱ぎ散らかしてあった下着を身につけた。部屋にほんのりと漂うジャスミンの香り。昨夜炊いたお香の残り香だ。
下着姿でベッドに膝をつき、ソフィアの顔を覗き込む。
「ソフィア、もう朝よ。起きなさい」
「ん……ん〜……」
アンジェリカは仰向けに寝ているソフィアに四つん這いで跨ると、顔の両脇に手をつき真上から顔を直視した。
「ソフィア、朝だってば。ジルコニアが来たらあんたマズいでしょ?」
枢機卿であるジルコニアの名前が効いたのか、ソフィアはぱちっと目を開けた。
「……アンジェリカ様……おはようございますです……」
「うん、おは──」
最後まで言わさずに、ソフィアはアンジェリカの首へ両手を巻きつけ引き寄せると唇で唇を塞いだ。
「……! ん……んんっ!」
まさかの不意打ちに焦るアンジェリカ。満足して唇を離したソフィアにジト目を向ける。
「朝っぱらから何するのよ。このエロ聖職者」
「酷いですアンジェリカ様! 私を襲ったのはアンジェリカ様なのに」
人聞きが悪いこと言わないでほしい。あれは流れというか自然の成り行きというか。
昨日、パールはルアージュと一緒にリンドルへ遊びに出かけ、夕食も食べてくるとのことだった。そこで、アンジェリカもソフィアのもとへ訪れ夕食をともにしたのである。
食後に彼女の部屋で少しお喋りして、帰ろうとしたところ泊まってほしいと言われた。ベッドは一つしかないため必然的に一緒に寝ることになり、結局もにょもにょすることになったのだ。
「まあそれはいいとして、あんたも早く着替えなさいよ。さすがに、いかにも情事のあとですみたいな格好を教皇が晒すのマズいでしょ」
「あ、そうでした。ジルに見つかったらお説教なのです」
ソフィアは裸のままあたふたとベッドを降りると、慌てて下着を集め始める。
アンジェリカはソファの背もたれにかけてあったゴシックドレスを手に取ると、シワができていないか丁寧に確かめ始めた。
「そうだ、アンジェリカ様」
下着の上に宗教服を纏ったソフィアがアンジェリカを振り返る。
「三日後の夜は、この時期では月が一番綺麗に見える日なのですよ。紅茶でも味わいながら一緒に見ませんか?」
「そうね……多分大丈夫だと思うけど」
「やった! 嬉しいのです!」
アンジェリカも月は嫌いではない。以前、パールから「ママと月って似合うよね」と言われて以来さらに好きになった気がする。
そんなこんなで三日後にまた会う約束をしたアンジェリカは、じゃあねと一言残してソフィアの部屋から転移した。
屋敷に戻ると、テラスではパールとキラ、ルアージュ、アリアの四人がティータイム中だった。
いや、フェルナンデスも入れてあげようよ。思わず心のなかでツッコむ。
「ママおかえりー」
「ただいま、パール。アリア、私にも紅茶を貰える?」
「はい、お嬢様」
キラは座っていた椅子をアンジェリカに譲ると、ウッドデッキの端に寄せてあった予備の椅子を取りに行く。
「ん? ママいつもと匂いが違うね。なんだろ……ソフィアさんの匂いがする」
瞬間、跳ねあがるアンジェリカの心臓。
「ん、まあ……ソフィアと一緒にいたしね」
しどろもどろになりながら紅茶のカップに手を伸ばす。
そんなアンジェリカの様子をジトーッと見つめるアリア。彼女はアンジェリカがソフィアを気に入っていることを知っている。一晩一緒にいて何があったかぐらいは容易に想像できるのだ。
「あ、悪いけど三日後の夜も留守にするから、皆んなも自由にしてね」
「お嬢様、どちらへ?」
微妙に笑みを含みつつアリアが問いかける。
「えーと、ソフィアが相談したいことがあるって……」
「さっきまで一緒にいたのにですか?」
アリアだけでなく全員が微妙にニヤニヤとした笑みを浮かべている。
「み、三日後じゃないとできない相談なんだって」
自分でも苦し紛れがすぎると感じ、思わず顔が赤くなる。ごまかすように紅茶を喉へ流し込むと、アンジェリカはそそくさと自室に戻った。
-三日後-
「来たわよ」
「ひゃん!」
突然自室に現れたアンジェリカに可愛い悲鳴をあげるソフィア。
「アンジェリカ様……驚かせないでくださいですよ」
「もういい加減慣れなさいよ」
今日のソフィアはいつもの宗教服や教皇服ではなく、白いワンピースを着用していた。どことなく楚々として見える。
「うう……まあいいですけど。じゃあ行きましょう」
何でも、教会の中庭から月見物ができるとのこと。すでに夜なので信者もいない。教会関係者にも中庭に近づかないよう御触れを回しているようだ。
芝生が敷き詰められた中庭に降り立つ。夜風が肌に心地いい。二人はあらかじめ用意されてあったガーデンテーブルに向かい合って座った。
「ねえ、人払いしてるなら紅茶どうすんのよ」
「ふふふ。ご心配なさらずにアンジェリカ様」
ソフィアがパンパンと手を打ち鳴らすと、少し離れたところから誰かが何かを持ってこちらへ歩いてきた。ソフィアの護衛であり聖騎士団の団長レベッカだ。
「御母堂様、今宵は私がお茶を淹れさせていただきます」
レベッカは恭しく頭を下げると、ティーポットとカップを載せたトレーをテーブルにそっと置く。
「……ちょっとソフィア。職権濫用すぎじゃない?」
ただの護衛ならまだしも、聖騎士団の団長にお茶汲みさせるとか。呆れた表情を浮かべるアンジェリカ。
「口が固くて信用できる者は限られているのですよ。大丈夫です。レベッカには美味しい紅茶を淹れられるよう特訓してあるので」
いや、それは知らんけど。
思いのほか見事な手つきで紅茶を淹れたレベッカ。いったいどれくらい特訓させられたのかと心配になる。仕事が済むと、頭を下げてそのまま闇に紛れるように消えてしまった。
いや、護衛いいの?
あ、私がいるからか。
「ほら、アンジェリカ様。あれ見てください」
闇夜に浮かぶのは真円の月。
まるで闇のなかにぽつりと穴が空いているような不思議な光景にも見える。
漆黒の空にぼんやりと輝きを放つ月に、二人はつい見入ってしまった。言葉も交わさず静かに月を眺め続ける。
「月が綺麗ですね」
「……ふ…………ふふっ……」
思わず笑いが漏れてしまったのはアンジェリカ。
「ど、どうしたんですか?」
「ううん、ごめんなさい。あなたが知っているはずはないわよね」
意味深なことを口にするアンジェリカに、ソフィアはきょとんとした顔を向ける。
「あなたが口にした月が綺麗ですねって言葉。遥か昔、海の向こうにあった国で愛の告白に使われていたのよ」
「ええっ!? そうなのですか?」
「本当よ。それを思い出しちゃって」
クスクスと笑うと、紅茶のカップに手を伸ばす。
「そうなのですか……ちょっと素敵ですね」
いや、キザすぎるでしょ、とはさすがに言わない。
「……じゃあ、アンジェリカ様。もし、私のさっきの言葉がそういう意味だとしたら、アンジェリカ様は何と返してくれますか……?」
ソフィアは膝の上でぎゅっと手を握ると、アンジェリカにちらりと視線を向けた。
アンジェリカも血のように紅い瞳でソフィアをじっと見る。静寂が支配する空間で二人は僅かな時間見つめ合う。
アンジェリカはソフィアから視線を外し月に目を向けた。
「……月は手が届かないからこそ綺麗なのよ」
呟くように口を開くと、再びソフィアへ目を向けニコリと微笑む。
「……そうですよね。手が届かないからこそ綺麗で素敵なのかもしれませんね」
少し寂しそうな表情を浮かべたソフィアだったが、すぐ笑顔を取り戻しティーカップに口をつけた。
すっかり冷めた紅茶は酷く苦い味がした。
お読みいただきありがとうございました!
少しでも面白いと感じてもらえたのなら↓の⭐︎で評価していただけると励みになります。ブックマークもうれしいです!




