第二百五話 失敗作
アンジェリカ邸の蔵書室。わずかに開いた扉の隙間からこっそり室内を窺っているのは、屋敷の主人であるアンジェリカと忠実なるメイドのアリア、執事のフェルナンデス、そしてルアージュの四名である。
視線の先には、椅子に腰かけ読書にふけるパールの姿があった。その傍に積まれている何冊もの分厚い書籍。
「お嬢様……ちょっとマズくないですか?」
声を押し殺しながらそう言ったアリアのそばで、アンジェリカは「ぐぬぬ」と唸った。
「あれってぇ、どれも真祖関連の本ですよねぇ?」
「そうですね」
ルアージュとフェルナンデスが顔を寄せ合いひそひそと言葉を交わす。
「どうするんですかお嬢様? あの子、私たちの故郷にめちゃくちゃ興味持っちゃいましたよ?」
「う……」
「はぁ……お嬢様が迂闊にブラッディムーンやラヴィアンローズの話なんてするから……」
「わ、私だけのせい!? 元はと言えば、アリアが悪魔族との戦争の話なんて始めたからじゃない!」
「あう……まあ、たしかに……。それより、どうするんです? あの子、絶対に言い出しますよ。「ママの国に行ってみたい!」って」
「いや、それもう言ってたし」
しかも目をキラキラと輝かせながらね。
「パール、行動力も半端ないですからね。放っておいたら、勝手に行っちゃうかも……」
思い立ったらすぐ行動。それがパールである。しかも、ときにとんでもないことをやらかす爆弾娘だ。これまでの数々の奇行が、アンジェリカとアリアの脳裏をよぎる。
「それほど簡単に行けるようなところではないけれど……注意しておいたほうがいいわね」
「ですね。なるべく目を離さないようにします。アルディアスさんにもお願いしておきましょう」
「そうね」
アンジェリカがもう一度室内へ視線を向ける。時折、口元をにんまりとさせながら黙々と読書し続ける愛娘の姿を見て、アンジェリカは深いため息をついた。
茶葉を変えて正解だった──
エルミア教の教会本部、その最奥に設けられた教皇の自室で、ソフィアは一人うっとりとした表情を浮かべた。
うん、ほんと最の高。やっぱりアンジェリカ様とフェルナンデス様お勧めの茶葉なだけある。この優雅で上品な香り、ほどよいコク。激務でズタボロになった心が癒やされていく……。
仕事終わりのティータイム。美味な紅茶を楽しみつつのんびりすごしていたソフィアだった。が──
突然、ズドンッ!! っと、雷が落ちたような音が轟き、ソフィアは思わずソファから跳び上がりそうになった。
「なななな、何事っ!?」
まさか、襲撃!? いや、ここエルミア教の教会本部よ!? そんな狼藉者いるはずが……!
ソフィアが慌てふためいていたそのとき──
「猊下、失礼します」
ノックと同時に部屋へ入ってきたのは、枢機卿のジルコニア。
「ジ、ジジジ、ジル! 何そんな落ち着いてんのよ!? 襲撃!? それとも雷か星でも落ちた!?」
「はい?」
「や、さっきもの凄い音が……!」
「ああ。訓練場からの音ですよ。今日はあの子たちが来ていますから」
ジルコニアの言葉を聞き、ソフィアは思い出したように「あ」と漏らした。
「そうだった……リズさんからお願いされてたんだった。今日だったのね」
「ええ。おそらくさっきのは……メルちゃんの魔法でしょうね。聖騎士たち、大丈夫かしら?」
頬に手を当てながらのんびりとしたことを口にするジルコニアに、ソフィアはジトっとした目を向けた。
や、メルちゃんの魔法とか、聖騎士が食らったら普通に死ぬでしょ。リズさんの愛弟子の中でもあの子は別格だ。まあ、その理由も今なら分かるが。あ……いいこと思いついちゃった。
「ねえジル。訓練が終わったらさ、あの子たちここへ連れてきてよ。お茶会しようって伝えといて」
ソフィアが突拍子もないことを言い出し、ジルコニアは思わずため息をついた。
「……もう。仕方ありませんね」
こんな自由すぎる教皇、前代未聞ではあるが、ジルコニアは彼女の奇行にすっかり慣れていた。
「あの子たちの親御さんに、帰りは聖騎士に送らせるので心配なさらずと使いを送っておきますね」
「うん、よろしく!」
やれやれ、と苦笑いを浮かべたジルコニアは、使いを送るべくソフィアの自室をあとにした。
雨が降りそうだな──
学園の校門を出たイングリスが空を見上げる。いつもならまだ明るい時間帯だが、どす黒く分厚い雲が空を覆っているためすでに周りは薄暗い。
それにしても、リアとカノンは何やってるんだか。小テストの成績が悪すぎて補習だなんて。だからあれほど勉強しときなよって言ったのに。まあ、たまには一人で帰るのも悪くないか。
いつもはクラスメイトとお喋りしながら通る道を一人で歩く。今にも雷を伴う雨が降りそうだからか、往来を歩く人も極めて少ない。それは、ジャスナス湖のそばも同様だった。
人気の観光地ゆえに、いつもは嫌になるほど観光客で埋め尽くされているが、今はほとんどいない。おかげで、ストレスなく遊歩道を進むことができた。
この遊歩道をこんなにストレスなく歩けるのはいつぶりだろう。こんなことなら、いつも悪天候でいいかも。
そんなことを考えつつ遊歩道を進む。人がほとんどいないため、いつもより早く遊歩道から一般道に出られた。
本格的に雨が来そうだし、早く帰ろうっと。
イングリスが歩くスピードを上げようとしたそのとき。進行方向に、一人の男が立っている様子が目に映った。道のど真ん中に立ったままこちらを見ている男に、イングリスはかすかな警戒心を抱いた。
男から少し離れたところでイングリスが立ち止まる。そのまま、ジッと男の顔を見やった。
「……私に何かご用でしょうか?」
表情ひとつ変えずにイングリスが言う。男の眉がピクリと跳ねた。
「……ふん。生意気そうなガキだぜ」
「見ず知らずの方から、そのようなことを言われる筋合いはありません」
「ほんと……どこまでもイラつかせてくれるぜ。お前も、シオンのヤツも……!」
ケッ、と吐き捨てた男の額から、二本のツノがにょきりと生えた。イングリスがハッと息を呑む。
「悪魔族……ですか? いえ、それよりも……私のお母さんを知ってるんですか?」
「ああ。俺はハクエイってもんだ。シオンとは昔馴染みでな。久々に会いに行ってやったっていうのに、危うく殺されそうになっちまったぜ」
「……」
「母親が悪魔族と関わりがあると知ってショックか?」
くくっ、といやらしい笑みをこぼすハクエイを、イングリスは何も言わずジッと見つめた。
「けっ……だんまりかよ。そもそも、お前知ってるのか? あの女はお前の本当の──」
「黙ってください。お母さんが私の本当の母親じゃないことは、とっくの昔に聞いています」
「へえ……」
「お母さんは、血が繋がらない私を本当の娘のように可愛がって、育ててくれました。あなたにああだこうだと言われたくありません」
イングリスははっきりとした口調で言い放った。ハクエイが面白くなさそうに舌打ちする。
「くだらねぇ……が、まあいい。俺がここへ来たのは、お前にちょっと痛い目を見せるためだ。シオンには世話になったからなぁ。お前を痛めつけりゃ、あいつはさぞかし悔しがるだろうなぁ」
「……」
「心配しなくても、殺しはしねぇよ。そんなことすりゃ、あいつはどこまでも俺を追ってきそうだからな。ま、腕の一本くらいは貰っておくがな」
ニヤつくハクエイの顔を、イングリスは無言のまま見つめる。
「くく、そんなに睨むなよ。目つきの悪いガキだぜ」
「……間違いです」
「あ?」
「目つきが悪いんじゃありません。これは、涼やかでクールな目元って言うんです。『展開』」
刹那、イングリスが眼前に魔法陣を展開させた。
「『烈風斬』」
魔法陣から烈風が巻き起こり、鋭利な刃となりハクエイへ襲いかかった。
「けっ……! こんな魔法が俺に通じるかよ!」
俊敏な動きで空へ逃れたハクエイは、イングリスへ向かって右手をかざした。
「魔法ってのは、こう使うんだ。『魔爪』!」
「……! 『魔法盾』!」
ハクエイの手元から伸びてきた黒い影が、鋭く巨大な爪となってイングリスに迫る。魔法盾で防御するも、完全には防げず制服のスカートがわずかに切り裂かれた。魔法盾を解除し、すかさず反撃を試みる。
「……『炎矢』!」
「無駄だ!」
ハクエイが右手を横へ薙ぐ。炎矢はハクエイの体へ届く前にかき消されてしまった。イングリスの顔にかすかな焦りの色が浮かぶ。
強い……悪魔族って、これほど強いのか。昔、お母さんから何度も聞かされてはいたけど。お母さんからは、もし悪魔族が目の前に現れたときは、迷わず逃げなさいと言っていた。
悪魔は狡猾で魔法戦闘にも強い。まともに魔法でやりあって勝てる者はそうそういないと。どうしても逃げられないとき、戦うしかないときは──
イングリスは目を閉じた。その様子を空から見ていたハクエイは、イングリスが観念したと思い静かに地上へ降り立つ。
「くく。やっと観念したようだな」
イングリスはその言葉に答えず、足を肩幅に開き顔の前で人差し指と中指の二本をスッと立てた。そして静かに目を開く。その様子を見たハクエイが眉をひそめた。
「あ? 何だそ──」
「『冥道より来たれ 外法の骸を喰みして来たれ』」
イングリスが呪文のようなものを唱え始める。足元から風が巻き起こり、制服のスカートがふわりと持ち上がった。
「『森羅万象を司る冥府の御方様に願ひ奉らん これなるは現し世に仇なさん邪たる外法 此を滅すること能うは炎の天将 以って玉響のとき獄炎の使役を許し給へ』」
肌が粟立つのを感じながら、ハクエイはハッと視線を地面へ落とした。足元に描かれていたのは五芒星。見たことがない文字も浮かび上がっている。
な、何だこれは? 魔法陣……のようにも見えるがまったくの別物だ。長く生きている俺でさえ、こんなものは見たことがない……!
ハクエイは得体の知れない不気味さと、恐怖にも似た感情を抱いた。
「『呪法の理をもって外法の穢れを祓わん』」
イングリスが顔の前に立てていた二本の指を、スッとハクエイへと向けた。そして──
「『獄炎の怪鳥よ、おいでませ』」
直感的に命の危機を悟ったハクエイが再び宙へ逃れようとする。が、それよりも早く、足元の五芒星から炎を纏った巨大な鳥が顕現しハクエイに襲いかかった。
「がぁああああああっ!!」
炎に包まれたハクエイが断末魔の叫び声をあげる。
「こ、この俺があああっ……こんなガキに……ぎ、ああああっ……くそったれぇ……この……失敗作があああっ!!」
最後まで悪態をついていたハクエイの姿が消え、同時に炎を纏った怪鳥も消えた。
「倒せた……の?」
イングリスはほっとしたように息を吐いた。
うまく……撃退できてよかった。あれが通じなかったら、間違いなくやられていた。
昔、お母さんがもしものときにと教えてくれた呪術。この世界における魔法の理とは違う術だから、人前では余程のことがない限り使わないようにと言われていた。
お母さんみたいに、祝詞の省略はできないけど……まあ頑張ったよね。とりあえず生きてるし。それにしても……お母さんはどうして、こんな呪術を知っているんだろう。
それと、さっきの悪魔族。お母さんとはどういう関係なのか。あいつが帰る前に言い放った、失敗作という言葉。あれはいったいどういう意味? 帰ってお母さんに聞いてみるか。
空を見上げた瞬間、雨粒が顔に落ちてきた。本降りになる前に帰らなきゃ、とイングリスは慌てて帰路につくのだった。