閑話 遥か彼方の思い出
森のなかは少し朝靄がかかっていたが、散策するにはちょうどいい気温だった。
新芽の香りに季節の移り変わりを感じつつ、アンジェリカはのんびりと歩を進める。
真祖の怒りを買い王家の血脈が途絶えたジルジャン王国は、ランドール共和国として新たに生まれ変わった。
500年続いた国も滅びるときは一瞬ね。どこか他人事のようにここ最近のことに思いをはせる。
でも、あれほど愚かな王の統治では遅かれ早かれ潰れていたと思うけど。
しばらく歩くと少し開けた場所に出た。大きな岩の上に腰をかけ、アンジェリカは目を閉じる。
500年も昔のことなのに、目を閉じると鮮明にあの子の姿を思い出せる。
ジルジャン王国を建国したハーバード1世。
王家の血脈を力づくで絶えさせた私を見て、あの子は何と言うだろう。
民に不利益をもたらしかねない王家など潰れたほうがいい、聡明なあの子ならそう言ってくれそうな気がした。
-約500年前-
「アンジェリカ。僕はこの国を変えたい。奴隷制度をなくし、誰もが幸せに暮らせる国を作りたい。だから僕に協力してくれないか」
長身で逞しい身体、精悍な顔つきのハーバードは真剣な眼差しで私にそう訴えた。
出会ったとき、彼は魔物のエサだった。
森へ魔物退治に訪れた貴族の盾として、奴隷の彼は連れてこられていた。
ただ、この森にいる魔物は基本的に強い。このままでは殺されると直感した貴族は、手枷をしたままの彼を囮にして一目散に逃げたのである。
私は上空からその様子を見ていた。
人間は弱い生き物だ。あの程度の魔物にでもあっさり殺されて胃袋に収まるだろう。
だが、囮にされた青年は諦めていなかった。
目には闘志が宿り、生きようと必死に魔物の猛攻をかわしていた。
その姿に何となく興味を惹かれ、私は彼を助けた。
完全に気まぐれだ。
それから約1年、彼は私の屋敷で暮らした。
アリアにはいい顔をされなかったが、私の客人ということで納得してもらった。
彼はもともと地方領主の息子だったが、父親が冤罪で処刑され、親族はすべて奴隷にされたとのこと。
奴隷に身を落としたあとは貴族に買われ、ずいぶんと酷い扱いをされていたようだ。
彼は子どものころまともな教育を受けていたこともあり頭もよかった。
今の王国では人々は幸せになれない。自分のように奴隷として苦しんでいる人もたくさんいる。この状況を何とかしたい。彼は本気でそう考えているようだった。
私の屋敷で生活しつつも、ときどき街へ足を運んで打倒王国の同志をどんどん集めていった。
幸いというべきか、王国が圧政を敷いていたこともあり、国に反感を抱く者は大勢いたようだ。
「どうだろうアンジェリカ。僕たちの勢力はそれなりに大きくなった。だが、それでもまだ王国を倒せるほどの戦力はない。情けない話だけど、君に頼りたいんだ……」
ベッドの上、一糸まとわぬ姿でハーバードは私にそう訴える。
「そうねぇ……。さて、どうしようかしら」
裸体で彼の上にまたがり、見下ろすようにして軽く微笑んだ。
「まあ考えておいてあげるわ……」
そう呟き、私はまた快楽の波に溺れていった。
それから半年後、彼は仲間たちを率いて反乱軍を興した。
国軍の規模に比べるとはるかに小さく、通常であれば簡単に鎮圧されたであろうが、そうはならなかった。
なぜなら、その前に私が王国の力を大幅に削っていたから。
眷属を使って軍の指揮官を片っ端から暗殺し、有力貴族のもとへは私が直接足を運んで反乱軍への協力をお願い(?)した。
その結果、終始反乱軍が戦いを優位に進め、遂に王城は陥落したのだ。
王族や主要な貴族を処刑し、彼はジルジャン王国の初代国王としてその座についた。
「妃として城に入ってくれないか」
まさか真祖に対し求婚する人間がいるとは思わなかったので、思わず思考停止してしまったが、もちろん断った。
私は悠久のときを生きる吸血鬼であり彼は人間。
彼は間違いなく私よりも早くこの世を去ってしまう。
あのめくるめく甘美で幸福だった時間は思い出として長く楽しめばいい。
建国後、しばらく彼は忙しくしていたが、時折時間を見つけては私のもとへ足を運んでくれた。
彼が正妃を娶り、子どもが生まれてからは会う頻度も少なくなったが。
彼がこの世を去る20年ほど前からはまったく会わなくなったが、ときどき鳥を使って手紙を届けてくれた。
あるとき届いた手紙には、病にかかりもう長くないといったことが書かれていた。
ああ。人間とは何と短命な種族なのだろう。
特に悲しみや哀れみの感情はなかったが、なぜか虚しさが押し寄せてきた。
ただの勘だが、おそらく今日彼は死ぬだろう。そう感じた。
だから、最期にひと目会いたいと思った。
夜、こっそり王城に入り込み彼の寝室へ忍び込んだ。
大きなベッドで眠るハーバード。
枕元に立つと、彼が目を開けた。私が来るのを分かっていたように笑顔を見せる。
「やあ。来てくれたんだね。アンジェリカ」
頬はこけて目も落ち込み、あのころの面影はほとんどない。でも、声はたしかにハーバードのものだった。
「ええ。おそらく今日だと思ってね」
「ああ。どうやらそのようだ」
どうやら彼も覚悟をしているらしい。
「それにしてもアンジェリカ。君は昔からまったく変わらないね。相変わらず美しい」
「フフ、ありがとう。あなたは変わりすぎね」
思わず二人で笑ってしまった。
「アンジェリカ。君に会えて本当によかった。何もかも君のおかげだ。感謝してもしきれない」
「私もあなたに会えて楽しかったわよ」
「もう会えなくなるのは寂しいものだ……。もし生まれ変わりなどが本当にあるのなら、今度こそ君と離れず一緒にいたいな」
「そうね。そういうときがいつか来ればいいわね」
ハーバードの呼吸が乱れる。
「残念だが……そろそろ時間のようだ。愛しているよ、アンジェリカ……」
「……私もよ」
わずかな時間のあと、彼は息を引き取った。
「……さようなら、ハーバード」
私は踵を返して彼のもとから立ち去った。
「懐かしい思い出ね……」
岩の上に腰掛けたまま、アンジェリカはそっと息を吐いた。
彼と一緒に過ごした数年のあいだ、たしかに私は幸せだったと思う。
でも、今はもっと幸せだ。
なぜなら……
「マーーーーーマーーーーーー!!」
パールがブロンドの髪を揺らしながらこちらへ走ってくる。
「ちょっとパール。結界の外に出ちゃダメって言ったでしょ?」
「大丈夫だよ!ときどき一人でこの辺に来るけど、あまり強い魔物いないし」
こっそりそんなことしてたのか。
「パール、帰ったらお説教ね。おやつも抜きにしようかしら」
途端に慌て始めるが、これも教育上必要なことだ。
「うう……今度から気をつけるから……!」
「ほんとに?」
「うん!」
「ならおやつ抜きだけは勘弁してあげるわ」
「お説教はするんだ……」
唇を尖らせる様子が愛らしい。
この子も人間だからいずれ別れは来るだろう。
幸せが大きい分、別れが来たときのことを考えると少々怖い。
そのときが来ても後悔しないよう、たっぷり愛情をかけて育てよう。
そんなことを考えつつ、パールのかわいらしい手を握って屋敷へ向けて歩き出すアンジェリカであった。
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