第二百二話 影響
空気を切り裂かんばかりの雷鳴が轟き、窓がカタカタと揺れる。
書斎で書物に目を通していたサイファは、ちらりと窓の外を見やった。天気は快晴、雷どころか雨が降る気配もない。
「パールか……いつもながら精が出るな」
目と鼻の先にあるアンジェリカの屋敷。その庭では、パールがアルディアス相手に魔法の練習をしていた。
微かに笑みをこぼしたサイファは、読みかけの書物へ再び視線を落とした。遠方から入手した、ホムンクルスに関する書物である。
ホムンクルス……そのものは特別珍しいものではない。遥か昔から、人間が錬金術や禁法を用いてホムンクルスを生成していたのを知っている。
ただ、パールはただのホムンクルスではない。女神サディが画策し、悪魔族の手で作られた対アンジェ抹殺兵器だ。
パールの小さな体には、膨大な魔力を生み出す魔核が埋め込まれている。これは、以前あの子の全身を解析したから間違いない。
だが、いくら解析してもそれ以上のことがわからない。魔力を暴走させ自爆させるための回路や引き金はどうなっているのか。よほど高度かつ複雑な術式が用いられているのか。
魔法で魔核へ干渉することは可能だが、そこら辺の詳しい情報がない限り危険だ。
パールたちの生成を指示していた悪魔族、七禍の一柱マモンはもういない。奴の思考や精神へも幾度となく干渉し覗いてみたが、有益な情報は手に入らなかった。
ふぅ、と小さく息を吐いたサイファは、しおりを挟んだ書物をパタンと閉じた。と、そこへ──
「サイファ、今大丈夫?」
音もなく書斎へ入ってきたのは、アンジェリカの母でありサイファの妻、メグ・ブラド・クインシー。
「ああ。どうした?」
「少しのあいだ、留守にするかもしれないから一応声をかけておこうと思って」
「……何かあったのか?」
「最近、いろいろな国で悪魔族らしき者が目撃されてるらしいわ。ソフィアからの情報なんだけど」
「ほう……」
興味がなさそうな声を漏らしたサイファへ、メグがじろりと視線を向けた。
「ほう、じゃないわよ。原因に心当たりがあるでしょ?」
「む……」
刺すようなメグの視線をかわし、サイファはそっと天井を見上げた。
もちろん、心当たりはある。おそらくは、戦争のせいだ。それも、我が軍と悪魔族の。
「すべての悪魔族が七禍のように好戦的ではないしね。しかも、悪魔族はこれまで幾度となく私たちから酷い目に遭わされてるわけだし。真祖の軍と正面きって戦争するなんてとんでもない、って逃げだす奴がいても不思議ではないわよね」
「……もともと、悪魔はずる賢い種族だからな。で、こちらへ逃げてきた悪魔どもをメグが狩りに行くつもりか?」
「冒険者ギルドからウィズに正式な依頼もあったみたいだし、一緒に行こうかなって。退屈しのぎになるかもだし、もしかしたら何か情報が手に入るかもしれないしね」
にこりと微笑んだメグは踵を返すと、「じゃあそういうことで」と一言残し書斎を出ていった。
「情報、か。まあ、あまり期待はできんな……」
小さく息を吐いたサイファは椅子から立ち上がると、窓に近づき外を眺めた。どうやら、まだパールは魔法の練習中らしい。
「……見に行くか」
少し前に入手した、新しい焼き菓子も用意してあるしな──
そんなことを考えつつ、サイファはいそいそと準備を始めるのであった。
──仕方がないことは理解している。こんなに素晴らしい環境でレジャーを楽しめるのだから、各地から観光客が押し寄せるのは仕方がない。
「……でも、これってやっぱりオーバーツーリズムじゃないかしら」
ラディック王国の王都リッチ。世界的な観光名所であるジャスナス湖は、今日も大勢の観光客で賑わいを見せていた。
湖のそばに設けられた遊歩道。湖の上を抜けてくる風にブロンドの髪を弄ばれながら、イングリスは歩みを速めた。
学園からの帰り道、ジャスナス湖のそばを散策するのがイングリスの日課である。が、最近は観光客がさらに増加し、のんびりと散策を楽しめなくなっていた。
はぁ……行政庁も何かしら対策してくれればいいのに。いくら観光産業が重要な財源とはいえ、地元住民の生活が脅かされるのは問題でしょ。
考えるほどイライラは増し、自然と歩幅も大きくなる。結局、いつもより早く自宅に着いてしまった。
「お母さん、ただいま」
玄関扉を開き声をかけると、廊下の奥から女がひょこっと姿を現した。腰まである赤い髪と、褐色に焼けた肌が印象的な彼女はイングリスの母、シオンである。
「あら、おかえりイングリス。今日はいつもより早いさね」
「うん。観光客で混雑してたし、遊歩道を急いで抜けてきたから」
「あははっ、そっか。でも、イライラするのはわかるけど、女の子がそんな眉間にシワ寄せてちゃいけないよ? 可愛い顔が台無しさね」
母の言葉に、イングリスが唇を尖らせる。
「……私、別にかわいくなんてないもん。目つきが悪いってよく言われるし」
「なーに言ってんのさ。それは目つきが悪いんじゃなくて、クールで涼やかな目元って言うんだよ」
シオンがイングリスの頭を優しく撫でる。親バカな言葉を聞かされ、イングリスは照れたように指をもじもじさせた。
「さ、もう少しで夕飯できるから、着替えておいで」
「ん……。ちょっとだけ今日の授業の復習しとく。ご飯はもう少しあとでいいかな」
「そう? イングリスは本当に頑張り屋さんだなぁ」
自室へ向かっていたイングリスが足を止める。
「うん……。もっと頑張って、魔法ももっと使えるようになって、早くお母さんを楽にしてあげたいから」
「イングリス……」
少し恥ずかしくなったのか、言うやいなやイングリスはそそくさとその場から離れた。そんな娘の姿に、シオンはくすりと笑みをこぼす。
ほんと……私にはもったいないくらい、いい子に育ってくれた。あの子は私の宝物だ。
あの子こそ、絶対幸せになってほしい。いや、幸せになる権利があるんだ。
それが、悪魔によって作られた存在だとしても。そして、この残酷すぎる真実は、決してあの子に知られちゃいけない。
私が、墓場まで持っていくんだ──