第二百一話 里帰り
「父上様、失礼します」
ノックもそこそこに部屋へ入ってきたヘルガの顔を見やり、サイファをかすかに眉をひそめた。
「顔色が悪いが、何かあったのか?」
「は……。先ほど、本国の配下から蝙蝠が送られてきまして……」
ヘルガは、蝙蝠から伝えられた内容をそのままサイファへ伝えた。真祖の支配領域へ悪魔族が大挙して進軍していること、そして戦況がきわめて不利であること。
「ほう……」
「我々がいないのをいいことに、奴ら一気に攻めてきたようです」
「奴らからすればまたとない好機だからな。我々が奪い続けてきた奴らの支配地域を少しでも奪還しようと考えているのだろう」
「加えて、我々がいないうちに戦力の弱体化を図りたい狙いもあるのかもしれません」
一瞬、何やら思案していたサイファだったが、すぐに先ほどまで読んでいた書物へ再び目を落とした。
「父上様……いかがいたしましょう? 私たち兄弟だけでも一度戻りましょうか?」
「放っておけ」
「は?」
「本国にはグレイがいる。それにデルヒもな」
「まあ……それはそうですが」
「特にデルヒの西方方面軍は強い。あやつが絶対の信頼を置く猛将もおるしな。攻撃力や突破力だけなら、かつての南方方面軍に匹敵するかもしれん」
かすかに驚いたヘルガが目を見開く。
「デルヒが信頼する猛将……というと、カグラですね。あの狂戦士……」
「ああ。デルヒが師として、親代わりとして手塩にかけて育てた娘だ」
カグラのことはヘルガもよく知っている。幼さが残る可愛らしい顔立ちに反し、荒々しい気性の持ち主だ。
西方方面軍に入ったばかりの頃、デルヒに対し侮るような態度をとった名門吸血鬼の一族を、たった一人で根絶やしにしたのも彼女だ。
「……ヘルガ。我々は今、神族という得体の知れない不気味な連中と対立しようとしている。そのうえで、アンジェやパールを守らねばならん」
「は」
「私はグレイやデルヒを信頼している。本国のことは任せておけばよい」
その言葉を聞いたヘルガは、口を真一文字に結ぶと力強く頷き、静かにサイファの自室をあとにした。
廊下を歩きながら、ヘルガはずいぶん昔のことを思い出していた。
あの……小汚く貧相だった少女が、今や方面軍屈指の猛将となり、デルヒの片腕にまでなるとは、分からぬものだ。
表にはあまり出さなかったが、リズが国を離れてからのデルヒは憔悴しきっていた。普段なら気にも留めぬ、戦争孤児の少女を保護して育て始めたのも、リズを失った心の傷を癒すためだったのかもしれん。
ヘルガは立ち止まると、廊下の窓から外を見やった。
リズにとっては……少々複雑な気持ちかもしれんな。まあ、リズとカグラが顔を合わせることなどないとは思うが。
風に煽られ、舞ってはひらひらと地に落ちる木の葉の様子を窓越しに眺めながら、ヘルガはそっとため息をついた。
──その話を聞いたとき、いろいろな感情が激しく入り混じったのを覚えている。
愛用の三人掛けソファに腰をおろし、仲良く談笑している三人の弟子たち。ティーカップに口をつけたリズは、愛弟子の一人であるメルへそっと視線を向けた。
慈愛の女神サディによる、お姉様の抹殺計画。パール嬢はそのための兵器として作られた、ホムンクルスとのこと。
そして、愛弟子であるメルも。
大切な弟子であるメルが、パール嬢を生産する過程で産み落とされた失敗作、欠陥品であると聞かされたとき、怒りで頭がおかしくなりそうだった。
もし、目の前に女神サディがいたのなら、バラバラに斬り刻んで一片も残さず燃やし尽くしてやりたい。そう思った。
「……? 何、リズ先生?」
不意にこちらを向いたメルと目が合い、リズは思わずハッとした。
「な、何でもありませんの」
かすかに慌てる師匠の様子に、メルが首を捻る。
「あなたたち、今日もよく頑張りましたわね。そろそろ、新しい魔法を覚えていってもいいかもしれませんの」
敬愛する師匠からの嬉しい言葉に、ユイとモア、メルの三人娘がぱあっと目を輝かせる。
「ほ、ほんとっ!? 先生!?」
「新しい魔法……! 震えます……!」
「楽しみ」
弟子たちの喜びようを見て、リズの口もとが緩んだ。
「あなた方も以前に比べてずいぶん成長しましたから」
きゃいきゃいと喜ぶ弟子たちに優しい目を向けたリズだったが、一つどうしても伝えておかねばならない事柄を思い出し口を開いた。
「喜んでいるところ申し訳ないのですが、明日からの授業は少しのあいだお休みですわ」
「えっ!? どうしてっ!?」
真っ先に声をあげたのは元気印のユイ。
「ちょっと……里帰りしようと思いまして。もう、ずっと帰っていませんでしたから」
かすかに目を伏せる師匠を見た三人娘が、そっと顔を見合わせる。
「たしか、リズ先生はアンジェリカ様を追いかけて国を出てきたんですよね?」
「ええ。父親には猛反対されたうえに怒りを買い、戦闘にまでなりましたけど。それ以来、一度も国にも実家にも戻っていませんの」
モアからの質問に答えたリズは、そのときの様子を思い出し小さくため息を漏らした。
「そ、そうだったんだ……!」
「そんなことがあったんですね……」
「まさか先生が家出娘だったとは」
三者三様の反応に、リズは思わずくすりと笑みをこぼした。
「正直、気まずい思いはあるのですが、お姉様からも一度顔を見せてくればと言われましたし。ここらで一度里帰りしてみようかと思いましたの」
あれから相当な年月が経ちましたし、お父様ももうお怒りではないですわよね。多分、ですが。
「というわけで、私が戻るまでは自主練習に励むように。教会聖騎士の訓練に参加してみるのもいいかもしれませんわね。私からソフィアさんに話を通しておきますから」
「先生、どれくらいで戻ってくるの……?」
ユイが上目遣いで不安げに口を開く。モアとメルも口にはしないものの、同じような不安を抱いていた。
「心配せずともすぐに戻りますわ。そうですわね……遅くても五日以内には戻りますの」
その言葉を聞いた三人娘が、ほっと胸をなでおろす。
「ふふ。私がいなくてもまじめに練習するように。戻ったら、また厳しく指導しますわよ」
三人同時に「はい!」と返事する弟子たちに、リズはにんまりしながら優しい目を向けた。