第百九十九話 曇天
新章スタートです。コミックス2巻も絶賛発売中ですー!
雨がくるな──
分厚い雲に覆われどんよりとした空を見やり、男は小さく息を吐いた。
緩くウェーブがかかる、長いグレーの髪を後ろにまとめた男は、鷹のように鋭い眼光を再び前方へと向ける。
男の名はデルヒ・ライア・コアブレイド。真祖の血族であり、西方方面軍を率いる指揮官。そしてリズの実父でもある。
小高い丘の上で腕組みをしたまま、デルヒは時おり聞こえる歓声や怒号に耳を澄ませた。と、そこへ──
「デルヒ様へ急報!!」
転がるように駆けてきた兵士が、デルヒの背後で跪く。
「……何だ?」
息を切らせる兵士に目もくれず、デルヒは静かに口を開いた。
「は! 今すぐ丘を捨てて撤退せよと、本営から伝令が……!」
兵士の言葉を聞いたデルヒの眉がぴくりと跳ねる。かすかに不満げな表情を浮かべたまま振り返ると、報告にやってきた兵士へ射殺さんばかりの視線を向けた。
「撤退、だと?」
「は……!」
「馬鹿な。ここは勝っている。本営には私の邪魔をするなと伝えておけ」
明確に怒気を含んだ瞳で睨みつけられ、兵士の体が小刻みに震える。が。
「し、しかし……、戦場全体で見ると戦況は芳しくありません……! ヴァニラ様やメビウス様の軍も押し込まれています!」
役目を全うしようと、兵士は冷や汗をかきながらも言葉を紡いだ。デルヒが思わず眉をひそめる。
ヴァニラとメビウス、どちらも若造の軍長だ。押し込まれるのも無理はない。
「なら、なおさら撤退はできん。ここで奴らを殲滅し敵の総数を減らす」
「い、いけません! 撤退は総司令からの命令です……!」
兵士が必死の形相で叫ぶ。
「総司令……グレイの命令だと?」
「は……!」
デルヒは思わず拳を強く握りしめた。
グレイ・バートン。古くから真祖を陰で支え続けてきた一族の現当主。そしてアリアの実父。
「……忌々しいが、仕方がない。撤退すると本営に伝えろ」
「は、ははっ!!」
兵士が急ぎ立ち去ると、デルヒはそばに控えていた配下へ撤退の指示を出した。
「カグラにも即撤退せよと指示を出せ」
「は。しかし、従うでしょうか?」
女だてらに戦場へ身を投じ、今では西方方面軍随一の猛将と呼ばれるようになったカグラを思い浮かべ、デルヒはそっとため息をついた。
「無理だろうな。いい、カグラには私から伝えよう」
口にするなり、デルヒはその場から姿を消した。転移した先は、丘から少し離れた場所の戦場。
乱戦状態となっている戦場へぐるりと視線を巡らせたデルヒの視界に、兵士を鼓舞しながら強力な魔法を放ち続けるカグラの姿が映り込んだ。
「いいぞお前ら! じゃんじゃん殺せ! 相手は悪魔族のクソどもだ! いっさいの遠慮はいらねぇからな!!」
幼さが残る可愛らしい顔立ちの華奢な女が、真っ赤な髪を振り乱しながら物騒な檄を飛ばす。その様子をわずかに眺めたデルヒは、彼女のすぐそばへ移動し声をかけた。
「カグラ」
「わっ!! びっくりさせんじゃね……って、親父様!?」
突然現れたデルヒを見て、カグラが目を丸くする。
「もう終わりだ。撤退するぞ」
「はあっ!? 何でだよっ! ここは勝ってるぞ!?」
「本営からの……総司令からの命令だ」
「い、意味わかんねぇ。わざわざ勝ってる戦場を捨てんのか!?」
「私とて納得はしていない。今から本営へ行き理由を聞くつもりだ」
「おもしれぇ……。親父様! あたしも一緒に行くぞ!」
「いや、お前を連れて行くと余計な面倒が起きる。お前はひとまず軍を引きあげ、拠点で待機だ」
その言葉に憤慨したカグラだったが、彼女の部下たちによる必死の説得もあり、渋々従うことに。
その様子を見てかすかに口もとを緩ませたデルヒだったが、再び口を真一文字に結ぶと、本営がある方角へ鋭い視線を向けた。
誇り高き真祖の軍が、悪魔族ごときに背を向けて撤退するとは。我々が納得できる理由があるのだろうな、グレイよ。
たしかに……戦場全体の戦況が芳しくないのは事実であろう。何せ、今こちらの戦力は通常時の半分にも満たないのだ。
御当主様に奥方様、方面軍の軍団長でもある二人の皇子も国を離れるという異常事態。この絶好の機会を悪魔族が見逃すはずはない。
何でも、御当主様たちは今、アンジェリカお嬢様の命に関わる問題を解決するため動いているという。
その報告を受けた際、リズが息災であることも聞いた。バカ娘のことはさておき、お嬢様の命に関わる重大な問題が発生しているのなら、自分も御当主様たちのそばで力になりたかった。
が、御当主様からは国のことを任せると使いが来た。グレイともども、自分たちが留守にしているあいだの国を任せると。そう言われたら断れるはずもない。
一瞬だけ空を仰いだデルヒは、まだぶちぶちと文句を言っているカグラへそっと視線を向けた。戦争で親を失い、ぼろぼろの姿で戦場を彷徨っていた少女。
まだ幼かった彼女の才能を見出し、魔法の英才教育を施したのがデルヒである。
「……では、行ってくる。カグラ、わかっているとは思うが……」
「わかってるって。絶対についてくんなってんだろ?」
「わかっているのならいい。では、またあとでな」
「ああ。気をつけてな、親父様」
かすかに頷くと、デルヒは再び転移魔法を発動させその場から消えた。それを確認すると、カグラは背後を振り返り配下をそばへ呼び寄せた。
「おい。精鋭を何人か見繕って親父様のあとを追わせろ。バレないようにな」
「は?」
「は? じゃねぇよ。本営で親父様に何かあったらどうすんだ」
「そ、そんな……。本営にいるのは味方ばかりですよ?」
「……そうとも言い切れねぇ。親父様のコアブレイド家とバートン家の関係があまりよくないのは、お前らだって知ってるだろうが」
「それは、まぁ……」
「しかも、今は御当主様たちもいねぇ。何が起きても不思議じゃあねぇってことだ」
「わ、わかりました。すぐ手配します」
かすかに顔を青ざめさせながら駆けていく配下の後ろ姿を見送ったカグラは、深く息を吐くと撤退の準備をすべく行動を始めた。
――バタンッ、と玄関扉が乱暴に閉じられ、屋敷内の空気が一瞬震えた。続いて、パタパタと軽快な足音が少しずつ大きくなり近づいてくる。
華やかな紅茶の香りにうっとりとしていたアンジェリカは、小さくため息をつきながら指でこめかみを揉んだ。
アンジェリカ邸のテラス。ガーデンテーブルを挟んでアンジェリカと向き合うリズも、思わず苦笑いした。
「まったく……あの子ったら」
「まあまあお姉様。子どもが元気いっぱいなのは微笑ましいことではありませんの」
「……さすが、人間の少女を三人も弟子にとる先生は言うことが違うわね」
親愛なる姉貴分からのささやかな嫌味を華麗にスルーしたリズが、ティーカップへと手を伸ばす。と、そこへ──
「ただいまっ!!」
テラスの扉が勢いよく開き、パールが顔を覗かせた。
「おかえり、パール。でもね、廊下を──」
「わかった! あ、リズさんこんにちは!」
アンジェリカの言葉を最後まで聞くことなく、パールがリズのほうへ向き直る。
「ごきげんよう、パール嬢。今日も元気いっぱいですわね」
「えへへー。あ、ママ! おじい様は?」
ぐぬぬ、と唸っていたアンジェリカへ再びパールが向き直る。
「お父様? たしか、館で調べものするって言ってたような」
「調べもの?」
「……ええ。神族や聖女に関する資料を世界中から集めては読み漁ってるみたい」
その言葉に、パールの表情が一瞬曇った。
「そっか……」
「ど、どうしたの、パール?」
「……んーん。私のせいで、みんなに迷惑かけてるなって」
そばへやってきたパールを、アンジェリカは自分の膝の上へ座らせた。
「パール、あなたのせいなんかじゃない。そんなこと言わないで」
「でも……おじ様たちだって……」
アンジェリカの兄、キョウとシーラ、ヘルガは、ここしばらくパールの護衛として登下校を共にしている。もちろん、これは彼らが自ら望んだことだ。
「パール。お父様もお母様も、お兄様たちも、みんなあなたのことを大切に考えてる。もちろん私やアリアもね。だから、誰も迷惑だなんて思ってないわ」
「そう……かな」
「ええ。あのお父様やお兄様たちが、今じゃパールにメロメロなんだから」
くすりと笑みをこぼしたアンジェリカに釣られて、リズも思わず口もとが緩んだ。
「たしかに。まさか、御当主様やお兄様方があそこまで心変わりするとは驚きでしたの。もちろん、私もパール嬢のことが大好きですわよ」
にっこりと微笑まれ、パールの頬がかすかに紅潮する。
「さ。宿題あるんでしょ? 夕食までには済ませてきなさい」
「うん……。わかった」
テラスから室内へと戻る娘の後ろ姿を見送り、アンジェリカは小さく息を吐いた。
「パール嬢も……いろいろ思うところがあるようですわね」
「それはそうよ……。今置かれているのがどういう状況なのか、あの子が一番理解しているわ。それでも、なるべく私たちを心配させないように普段から明るく振る舞ってる」
「……健気ですわね」
「そうね……」
ティーカップをソーサーへ戻したアンジェリカは、一瞬思案したあと、リズへ視線を向けた。
「それはそうと、リズ。あなた、一度国へ戻る気はないの?」
「は?」
「家族に顔を見せに帰らなくていいのかって聞いてんのよ」
リズの目がスーッと泳ぐ。
「ああ……まあ、考えてはいましたのよ。一度くらい帰るべきなのかしら、と」
「帰りたくないの?」
「別に……そういうわけではありませんの。まあ、ちょっと帰りにくいというのはありますが」
「どうして?」
「その……国を飛び出す前に、お父様といろいろあって……」
リズは国を飛び出す前に起きた出来事をすべて話した。他種族の戦争へ介入し父の怒りを買ったこと、その父と戦闘になり、一方的に別れを告げて国を飛び出したこと。
「そ、それはなかなかね」
「まあ、あの頃はかなり荒れてましたし」
「ふーん……」
リズがアンジェリカをジロリと睨む。
「ふーん、じゃありませんのお姉様。いったい誰のせいでそうなったとお思いですの?」
「あう……」
「思い出したらムカムカしてきましたわ」
「ち、ちょっと。それに関してはめちゃくちゃ謝ったじゃない」
「そうですけど……」
かすかに慌てるアンジェリカへ、リズはジト目を向けた。
「ま、まあ。デルヒももう怒ってはないだろうし、きっとあなたに会いたがってると思うけど」
「……そうでしょうか」
「あなただって、父親に会いたい気持ちはあるんじゃないの?」
「まあ、少しは……」
唇を尖らせて明後日のほうを向くリズの様子に、アンジェリカがくすりと笑みをこぼす。
「なら、会いに行くべきだと思うわ。私もお父様やお母様とかなり長いあいだ疎遠だったけど、会えてよかったって思ってるもの」
「そんな、ものですか……」
「うん」
リズは小さくため息をつくと、遠くの空を見やった。今にも垂れ下がってきそうな、黒々とした不気味な雲が少しずつ空を支配していく。
雨がくるかもしれない。そんなことを考えつつ、リズはティーカップに口をつけ、残りの紅茶を飲み干した。