閑話 価値のない世界
次回から新章スタートです。
鼻孔を刺激する濃すぎる血の匂いと、眼下に広がる目を覆いたくなるような惨状に、男は全身を小刻みに震わせながら立ち尽くした。
男の名は、デルヒ・ライア・コアブレイド。真祖に連なる吸血鬼の名門一族であり、当主たるサイファ・ブラド・クインシーより西方方面軍の指揮官に任命されている男。そして、リズの父である。
上空から、もともと戦場だった場所を見下ろしながら、デルヒは思わず下唇を噛んだ。視界に映るのは、およそ千体以上の骸。
無造作に転がる大勢の骸を目にし、デルヒは嫌な汗が止まらなかった。戦場に骸が晒されるのは当然のことであるし、数多くの戦争を経験しているデルヒもそれは承知している。
だが、今彼の眼下に広がる光景は、明らかに異様だった。骸の正体は、類まれなる戦闘力を有する鬼人族と、竜の血を引くと言われる竜人族。
古くから領土争いをしている二つの種族が戦争をすること自体は何ら不思議なことではない。が、それを踏まえても、デルヒの眼下に広がる光景は明らかに異様だった。
なぜなら、双方が衝突した痕跡がまったくないのだから。両軍とも、自軍が布陣していた場所で骸となっている。
魔法で焼かれ黒焦げになった者、全身をなます斬りにされた者、腹に風穴をあけられた者。どの骸も極めて損壊が激しいうえ、一方的に攻撃を受けたような形跡さえ見られた。
つまり、何者かが鬼人族と竜人族の戦争に介入し、双方へ一方的に攻撃を加え骸に変えたのだ。デルヒの拳に思わず力が入る。
「これでは……まるで虐殺ではないか……!」
有無を言わせぬ圧倒的な力による無慈悲な虐殺。しかも、他種族間の戦争に介入しての虐殺など、まともではない。
デルヒの顔に怒りの色が滲む。そして、彼はこの惨状を引き起こした者に心あたりがあった。
――薄暗い森のなかに、耳をつんざくような炸裂音が響きわたる。十メートルほど先に立っていた巨木の幹が大きく抉りとられ、ゆっくり傾き始めたかと思うと、やがてズシンと大きな音を立てて地面に横たわった。
倒れた木のほうへ向かって片手を突き出していた紅い瞳の少女が、思わず唇を噛む。しばらく悔しそうに一点を見つめ続けていた少女は、眼前に展開していた魔法陣を解除すると、にわかに天を仰いだ。
紅い瞳の少女、リズは大きくため息をつくと、再び眼前に魔法陣を展開させようとした。のだが――
並々ならぬ気配を感じ、リズはゆっくりと背後を振りかえった。そこに立っていたのは、よく見知った身内。
「……お父様」
顔に怒りの色を滲ませるデルヒに対し、リズの表情にはいっさい変化がない。燃えるような紅い瞳とは対照的に、その声色は底冷えするように冷たかった。
「……いったい、どういうつもりだ。リズ」
「何のことですの?」
「白々しいことを言うな! 鬼人族と竜人族の戦争に介入したのは貴様ではないのか!?」
声を荒げるデルヒを、リズは黙ったままじっと見つめる。反論しないのは、デルヒの言う通りだからだ。
「他種族の争いに首を突っ込むだけでも問題だというのに……! 貴様は、自分が何をしたのかわかっているのか!?」
リズのこうした問題行動はこれが初めてではない。
「ええ、もちろん。ちょっとむしゃくしゃしていましたので、魔法の実験台になってもらったんですの」
何でもないことのようにサラリと言い放った娘に、デルヒは唖然とした。元来、リズは戦闘を好む性格ではない。優しく愛らしい娘の変わりように、デルヒは思わず拳を強く握りしめた。
「リズ……! お前の気持ちは、わからんでもない……。だが、それでもお前のしたことは――」
刹那、リズの体から殺気混じりの魔力がゆらゆらと立ち昇り始めた。
「……お説教は結構ですの、お父様。私の気持ちがわかる? いいえ、決してわかりませんわ」
どこまでも冷たい瞳で見据えられ、デルヒはそれ以上言葉を紡げなかった。
娘がこうまで変わってしまった理由。それは、姫の失踪だ。
娘が幼いころから姉と慕ってきたアンジェリカ様は、何の前触れもなく行方をくらませた。しかも、側近であるアリアやフェルナンデス殿まで伴って。
その話を聞いた娘は、まさに青天の霹靂だったろう。酷く取り乱した娘だったが、少し時間を置けば落ち着くと思っていた。が――
「……もう、バカなことはやめるんだ、リズ。お前が自棄になったところで、姫が戻ってくるわけでもないのだ」
デルヒの言葉に、リズの眉がぴくりと跳ねる。
「ご当主様をはじめ、皇子たちも全力で姫を探しておられる。きっと、姫が戻られる日は遠くない。だから――」
「本気でおっしゃっていますの、お父様?」
「……!」
「……お姉様は、眷族であるアリアさんや博識なフェルナンデス様と一緒に出ていかれたのですのよ? いくらご当主様やお兄様方であっても、本気で姿をくらまそうとしているお姉様を見つけるなど容易なことではありませんわ」
デルヒは歯噛みした。なぜなら、リズの言っていることが正しいからだ。
「だから……私がお姉様を見つけます。何十年、いや、何百年かかろうと」
「な……! バカな! お前まで国を出るというのか!?」
「ええ。私にとって、お姉様のいない世界など何の価値もありませんから」
「み、認めぬぞ、そのようなこと……!」
「お父様に認めてもらおうとは思っていませんの。私の意思で勝手にそうさせてもらいますから」
リズの体から、黒々とした魔力が立ち昇る。デルヒも魔力を解放した。
「この、バカ娘め……! これ以上お前のわがままにはつきあいきれん!」
デルヒがサッと右手を横に薙ぐと、リズの足もとに巨大な魔法陣が展開した。そして――
「『爆血陣』」
デルヒが魔法を唱えると、魔法陣から顕現した血のように紅い炎が、またたく間にリズの小さな体を包み込んだ。
「娘であるお前にこのような荒っぽいことはしたくないが……多少傷めつけてでも連れて――!?」
ハッとしたデルヒが上空へ目を向ける。視線の先には、難なくデルヒの魔法から逃れふわふわと宙に浮くリズの姿があった。
瞳に冷たい色を宿したまま、リズがデルヒの足もとへ魔法陣を展開させる。
「『煉獄』」
「むぅ……!」
黒く禍々しい炎が猛りながらデルヒの体へ襲いかかる。が、デルヒは両腕を顔の前でクロスさせると、全身に薄い対魔法結界を張った。リズの目がスッと細くなる。
「対魔法結界、ですか」
「ああ……。リズよ、戦闘でこの父に敵うわけがないであろう。もうムダなことはやめよ」
眉間にシワを寄せて睨みつけてくる父に対し、リズは表情を変えずにその目をじっと見つめ続ける。
「子どもだと思って舐めないでくださいな、お父様。幼いころより、私が誰から魔法を教わってきたのか、まさか忘れたわけではありませんわよね?」
リズの言葉にデルヒがハッとする。父であるデルヒはもちろん、リズは幼いころより一族最強の吸血鬼と評されたアンジェリカや、フェルナンデスからも魔法の指導を受けていた。
スーッと地上へ降り立ったリズが、デルヒへ向けて手をかざす。そして――
「まだ、未完成もいいところなのですが……『展開』」
リズの眼前に展開した三つの魔法陣を目にして、デルヒは思わず戦慄した。細部まで設計された緻密な魔法陣の複数展開。
そこから繰り出されるのがどのような魔法なのか、デルヒはよく知っていた。
「ま、まさか……!」
「……『魔導砲』」
複数展開された魔法陣が一斉に火を噴き、デルヒへと襲いかかった。対魔法結界で受け止めるのは得策ではない、と瞬時に判断したデルヒが転移魔法を発動させる。
上空へと転移しひとまず安堵したデルヒだったが、次の瞬間とんでもない光景が目に飛びこんできた。それは、かわしたはずの魔導砲が自身の眼前に迫る様子。
「な……!?」
「ごめんあそばせ。追尾型ですの」
三方向から迫る魔導砲がデルヒの体へ直撃した。
「ぐっ……!!」
デルヒの顔が苦痛に歪む。
咄嗟に対魔法結界の防御力を高めたものの、まさかこれほどとは……! 致命傷は負っていないが、胸部の骨はいくらかやられてしまったかもしれん。
デルヒが瞬時に治癒魔法を発動させようとした刹那――
「それではお父様。ごきげんよう」
地上から上空を見あげていたリズが、見事なカーテシーを披露する。
「ま、待てリズ! 待つんだ!」
力いっぱい叫ぶが、リズはデルヒの声を無視してその場から姿を消した。
「ぐ……バカ娘が……!」
治癒魔法でダメージを回復させたデルヒは、絞りだすように言葉を吐くとおもむろに天を見あげた。そのまま、デルヒはしばらくのあいだ微動だにせず天を見あげ続けた。
――何か、揺れているような……地震?
「……せい! リズ先生!」
突然、耳元で大きな声が聞こえ、リズはハッとしたように目を開いた。
ここは……私の自宅? ああ、ユイたちに指導をしてティータイムにしたあと、少し眠ってしまったようですわね。
いまだぼーっとしているリズの様子に、ユイたち三人の弟子が怪訝そうに顔を見あわせる。
「せんせー、どうしたの? お疲れ?」
「リズ先生、もしかして体調が悪いんじゃ……」
「ん。熱は……ない」
メルがリズのおでこにそっと手をあてる。思わずリズはくすりと笑みをこぼした。
「ふふ、大丈夫ですわ。ぽかぽかして気持ちがよかったので、眠ってしまっただけですから」
にっこりと口もとをしならせたリズが、ユイとモア、メルの頭を一人ずつ撫でていく。
「そうなのー? それにしては、眉間にシワ寄せたまま寝てたみたいだけど」
ユイが自分の眉間を指さしながら言う。
「ああ……ちょっと、懐かしすぎる夢を見たものですから」
リズは窓のほうへ目を向けると、雲ひとつない空をそっと見あげた。
ずいぶんと……懐かしい夢ですこと。そう言えば、お父様とはあのままケンカ別れして以来一度も会っていませんわね。
あのころは、お姉様に対する怒りやら寂しさやらで、私相当に荒んでいましたから。今となっては、お父様に申し訳ない気がしますわ。ほんの少しだけですが。
リズは小さく息を吐くと、ソファの背もたれへ体をあずけた。
あれほど荒んでいた私が、今では人間の女の子を弟子にするとは、何があるかわからないものですわね。
それはそうと、やはりお父様には一度会いに行ったほうがいいかしら。ご当主様たちから、すでに私のことは伝わっているとは思いますが。
お父様のほうからやってくると思ったのですが、よくよく考えると、ご当主様やお兄様方、メグ様まで本国を離れているのですから、国を離れられないのかもしれませんわね。
めちゃくちゃ気は重いですが……近々、会いに行きましょうか。
小さく息を吐いたリズは、ソファにもたれたままそっと天井を見あげた。