閑話 母の心子知らず 1
「うう〜……ママのバカ! 何よっ、たかだかあんなことで怒るなんて……! もう、絶対に許さないんだから〜!」
ふわふわと空を飛びながら、アンジェリカはそっと頭をさすった。先ほど、母から強烈なゲンコツを食らった部分がぷっくりと膨らみタンコブができている。
ふんっ、だ。何よ、エビルドラゴンを起こしたくらいでさ。ほんっと意味わかんないよ。パパもパパだよっ。ママが怖いのはわかるけど、もうちょっと私のことかばってくれてもいいじゃない。
三十分前のこと。エビルドラゴンに攻撃を加えて眠りから起こした件について、アンジェリカは母であるメグから強烈な折檻を受けた。幼いながらも、自身の魔力と魔法技術に絶対の自信をもっていたアンジェリカだったが、対峙した母は想像の遥か上を行く強さだった。
くっそー……悔しいなぁ。まさか、ママがあんなに強いとは思わなかったよ。あれほど娘に対して容赦がないとも思わなかった! 酷いよ! 暴力反対!
こうなったら、絶対にママをぎゃふんと言わせてやるんだから。まともに戦っても勝てそうにないから……反則技を使ってやる! あれならきっとママにも勝てるはず!
ふふん、と口もとを緩めたアンジェリカは、上空から地上を見下ろした。眼下に広がるのは、小さな人間の街。
んー……どうせ血を飲むのなら人間がいいよね。それも女の子がいい。さて、と……血を飲ませてくれるかわいい女の子はいませんか~? っと。
目を皿のようにして上空から物色を始めるアンジェリカ。
お。あの子、よさそうじゃん。
アンジェリカが一人の人間を目にとめる。視線を向ける先では、十代前半くらいの女の子が何やら大きな箱のようなものを抱えて、ヨタヨタと歩いていた。雪のように真っ白でやわらかそうな肌に、サラサラの髪。アンジェリカは口もとをにんまりとしならせた。
周りにほかの人間がいないことを確認したアンジェリカは、ヨタヨタと歩く女の子の前にスーッと降り立った。
「きゃっ……! な、何!?」
突然、空から降りてきたアンジェリカを見て少女が驚きの声をあげる。あまりにも驚いたのか、両手で抱えていた大きな箱を落としてしまった。ガチャンッ、と何かが割れるような音が響く。
「あ……!! ああ……!! ど、どうしよう……! 旦那様から頼まれていたお使いの品なのに……!」
顔を真っ青にした少女が、へなへなとその場へ崩れ落ちる。その様子を見たアンジェリカは、首を捻りながら少女のもとへ歩み寄った。
「ん? その箱のなか、何か大切なものが入ってるの?」
「あ……うん。でも、どうしよう……きっと、壊れちゃった……」
「ふーん……」
少女のそばにしゃがみこんだアンジェリカが箱をあける。少女の言う通り、箱のなかに入っていた壺のようなものは見事に割れていた。
「うん、割れてるね」
無神経なアンジェリカの言葉に、少女がボロボロと涙をこぼし始める。途端に焦り始めるアンジェリカ。
え、え、え。どうして泣いてるの? これ、そんなに高価なもの? どう見ても安っぽい壺にしか見えないんだけど。人間ってよくわかんないなぁ。ま、いいか。
「ねぇ、これ直せるけど、どうする?」
「え……? ウ、ウソだよ、そんなの……」
「ほんとだよ。今すぐ直してあげるから、直せたら私のお願い一つ聞いてくれる?」
「ほ、ほんとに……? ていうか、お、お願いって……?」
「たいしたことじゃないよ。さ、どうする?」
少女の顔にためらいの色が滲む。そもそも、目の前にいる紅い瞳の少女が何者なのかもわからないのだから、当然である。ただ、本当に直せるのなら、という気持ちがあったのも事実。
「わ、わかった。本当に直せた――」
「『再生』」
少女の言葉を聞く前に、アンジェリカが魔法を唱える。割れた壺が眩い光に包まれ、少女は思わず目を背けた。そして、次に壺を見たときには――
「……え!? ほ、本当に……直ってる!」
「うん。だから直せるって言ったじゃん」
「あ、ありがとう!!」
お礼を言われ、アンジェリカは自慢げな表情を浮かべる。そもそも、壺が割れた原因はアンジェリカにあるのだが。
「あの……それで、お願いって……?」
「ああ、そうそう。あのね、あなたの血を飲ませてほしいの」
何でもないことのように、軽い感じで口にしたアンジェリカとは対照的に、少女は固まってしまった。これもまた当然の反応である。
「え……?」
「えっと。私、吸血鬼なんだ。ていうか、真祖なんだけど」
その言葉にまたまた驚愕する少女。顔は再び真っ青になり、肩もぶるぶると震え始めた。
「し、真祖って……昔、世界のほとんどを征服したっていう……?」
「ああ、それはパパのことだね。私はよく知らないけど」
アンジェリカがあっけらかんと言う。一方の少女は、顔をこわばらせたまま俯いてしまった。
「ど、どうしたの?」
「わ、私……死んじゃうんですか……? 血を飲まれて……」
少女の瞳から涙がこぼれ始める。
「い、いやいや。血を飲んだくらいじゃ死なないよっ。そりゃ、飲みすぎたらダメだけど……そんなに飲まないし。うん、約束する」
「本当に……? 吸血鬼になったりもしない……?」
「しないしない。何なら、ほかにお礼もするよ? あ、それ重そうだから運ぼうか?」
そう口にするなり、アンジェリカは大きな箱をひょいっと持ちあげた。その華奢な体のどこにそんな力が、と少女が啞然とする。
「さ、行こっか」
にっこりと笑みを向けてくるアンジェリカに、もう少女は首を縦に振るしかなかった。
――真祖が住まう城の一室では、アンジェリカの父であるサイファと母のメグがソファに座り向きあっていた。困惑するようなサイファに対し、メグの表情は極めて硬い。
「メグ、やはりやりすぎだったのではないか……?」
「はぁ? あれでもかなり手加減したわよ。だいたい、あなたたちがあの子を甘やかすから、こんなことになってんでしょうが」
「う……」
「自由奔放にのびのびと育ってほしいとは思ってるけど、それは何をしてもいいというわけではないわ。親である私たちがあの子を正してあげないと、将来あの子が困るのよ?」
ジロリと睨みつけられ、サイファの視線が宙をさまよう。
「まったく……エビルドラゴンはただでさえ厄介な相手なのに……。しかも、あいつは気配を消して潜伏することにも長けている。ある日いきなり現れて、大暴れし始めるなんてこともあるのよ」
メグがローテーブルの天板を指でコンコンと何度も叩く。イライラしている証拠だ。
「あ、あの……メグ様。申しわけありません。私が、お嬢様にもっと強く反対していれば……」
壁際に立ったまま二人のやり取りを聞いていたアリアが口を開く。アンジェリカがいたずらのつもりでエビルドラゴンを攻撃したとき、アリアもそばにいた。彼女は主人を止められなかったことに、少なからず責任を感じていた。
「あなたが謝ることじゃないわ。アンジェがやると言えば、あなたは反対なんてできないでしょうし」
「はあ……」
「むしろ、あなたはあのわがまま娘の専属メイドとしてよくやってくれているわ」
「あ、ありがとうございます」
恐縮した様子でアリアがぺこりと頭を下げる。
「それにしても、アンジェはいったいどこへ行ったのやら……」
サイファが心配そうに口を開く。一人娘であるアンジェリカは、サイファにとって何者にも代えがたい大切な存在なのだ。
「ま、まさか……メグに折檻されて落ち込んで……そのまま家出するつもりでは……!」
「あなたバカなの? あの子がそんなタマなものですか。きっと、「悔しい~! こうなったら、絶対にママをぎゃふんと言わせてやる!」なんて考えているわよ」
クオリティの高いアンジェリカのモノマネを披露され、アリアは笑いをこらえるのに必死だった。
「ぎゃふんと言わせるも何も……あれだけ一方的にやられたのだぞ? アンジェに打つ手など……」
「ふん……あの子がやりそうなことくらい、お見通しよ」
母親にとって娘は自分の分身のようなものだ。一人娘であるアンジェリカは、メグにとってもう一人の自分と言っても過言ではない。ゆえに、悔しそうに捨てゼリフを吐いて実家を飛びだした娘がどのような行動をとるのかも、メグにはすべてお見通しだった。
「多分、今ごろは人間の街にでもいるんでしょ。で、好みの女の子でも物色しているわきっと。血を飲むためにね」
メグの言葉に、サイファとアリアがギョッとした表情を浮かべる。
「ま、まずくないか? それ」
「あの子もバカじゃないんだから、相手が死んでしまうほど血を飲むようなことはしないでしょ」
「いや、そうじゃなくて。さすがに、吸血したアンジェを止めるのは骨が折れると思うのだが……」
「何も問題ないわ。戦闘力さえ上げれば私に勝てると思ってるとか、本当に浅はかというか何というか……」
はぁ、とため息をついたメグが首を左右に振る。一方、話を聞いていたアリアは、「これってとんでもないことになるんじゃ」と冷や汗をかいていた。そんなアリアをよそに、メグは形のいい唇を三日月のようにしならせる。
「ふふ。もっと、きつめのお仕置きが必要ね」
「戦場に跳ねる兎」「永遠のパラレルライン」「万能吸血鬼リズ先生のほっこり弟子育成日記」連載中♪