第百八十九話 大人げない二人
何だろう……先ほどから誰かに体を触られている気がする……。というより、ここはどこ? なぜ、私はこんな果てしない闇のなかにいるの? それに、ずっと誰かに見られているような感じも……。
「ん……」
自室のベッドへ横たわっていたアリアがうっすらと目をあける。まず視界に飛び込んできたのは、見慣れた自室の白い天井。
そうだ……あのときヘルガ様たちと戦闘になって……。リズさんとノアが助けに来てくれて……。
体に痛みはまったくない。おそらく、リズさんが治癒魔法をかけてくれたか、パールが聖女の力を行使してくれたのだろう。
パールに思いを馳せた途端、アリアの胸にズキンと鋭い痛みが走った。あのとき、皇子たちが口にした残酷な真実を思い返し、アリアの顔がわずかに歪んだ。と、そのとき――
「あ、起きた?」
誰もいないと思っていたところ突然声をかけられ、アリアはベッドの上で弾けるように半身を起こした。
「え……! メ、メグ様!?」
視線を向けた先では、アンジェリカの母であるメグが腕組みをしたまま壁にもたれかかっていた。
「ど、どうして……あっ……!」
顔に驚きの色を滲ませたアリアがベッドから降りようとするが、立ち眩みを起こしたのか上半身がグラリと大きく揺らいだ。咄嗟にメグがその体を腕で支える。
「いきなり起きると危ないわよ。でも、目を覚ましてよかったわ。あなた……五百年も眠ったままだったのよ?」
「は!? ご、五百年!? そ、そんな……!」
驚きの事実を伝えられたアリアが呆然とした表情を浮かべる。が――
「なんてね。ウソに決まってるでしょ」
「は……?」
クスクスと笑みをこぼすメグを視界に捉えるアリアは、まだ状況をよく呑み込めていなかった。メグがベッドのそばにあった木製の椅子へ腰をおろす。
「ごめんなさいね、アリア。あなたをあんな目に遭わせて……あの子たちを止められなかった私の責任よ」
真剣な瞳でアリアと視線をあわせていたメグがペコリと頭を下げたため、途端にアリアは慌て始めた。
「や、やめてくださいメグ様! 頭をあげてください……!」
「……全部、聞いたのよね?」
そっと頭をあげたメグが、再びアリアの目をじっと見やる。
「……はい。あの……メグ様は、その……」
「私は、サイファやあの子たちのやり方には反対なの。母親だから……アンジェの気持ちはよくわかるもの」
「……ヘルガ様たちが仰っていたことは……間違いないんでしょうか?」
「……何かの間違いであってくれたら、どれほど心が楽だったかわからないわ。でも、残念なことに真実なの」
「そう……ですか」
目を伏せるメグの様子を見て、アリアは思わず下唇を噛んだ。
「でもね、まだ私は希望を捨てていない。きっと、何とかできる方法があるはずよ。そのために私はここに来たんだから」
「そんな方法が……?」
「幸いまだ多少の猶予は残されてる。そのあいだに、アンジェもパールも救える方法を何としても考えるわ。だから、あなたは今まで通り、あの子やパールにも接してあげてね」
「も、もちろんです。お嬢様もパールも、私にとって何より大切な存在なんですから」
はっきりとそう口にしたアリアに、メグがにっこりと微笑みかける。
「ふふ。あなたならそう言うと思ったわ。あ、そうそう。私、昨日からここで一緒に暮らすことになったから、これからは私の分の食事もお願いね、アリア」
「え、え。そうなんですか? だ、大丈夫なんですか? その、ご当主様は……」
メグの夫でありアンジェリカの父である真祖サイファ・ブラド・クインシーは、身近な者なら誰もが知る愛妻家である。
「私に黙って勝手に行動を起こした罰よ。私が帰って来なくて、今ごろ青くなって城のなかを徘徊しているでしょうね」
クスクスと愉快げに笑みをこぼすメグの様子に、アリアは内心「ええ……」と困惑した。
「それはそうと……」
メグがアリアの胸元へちらりと視線を向ける。
「相変わらず、すっごいわね。触り心地もめちゃくちゃいいし」
はちきれんばかりに膨らんでいる寝巻きの胸元を、メグがまじまじと見つめた。
「ち、ちょ……メグ様! あまり見ないで……って、触り心地……? もしかして……!」
「あ、うん。寝ているときにちょっと触らせてもらっちゃった」
アリアの顔がまたたく間に紅潮していく。まさか、寝ているあいだに勝手に体を弄ばれているとは思いもよらなかった。
「ふふ。若いって羨ましいわ。肌にハリもあって」
「うう……やめてくださいよぅ、メグ様ぁ……」
「さあて、今度はフェンリルをモフりに行ってこようっと。あ、動けるようになったら紅茶でも淹れてちょうだい。あなたの淹れる紅茶も飲んでみたいから」
メグは椅子から腰をあげると、笑みを浮かべたままアリアの頭をそっと撫でた。部屋を出ていくその後ろ姿を見送ったアリアは、「はぁ~」と深くため息をつくのであった。
――別に母親のことは嫌いではない。いや、どちらかというと好きだし尊敬もしている。だから、同居すると言われたときもそこまで反対はしなかった。が、やはり今思えば反対しておけばよかったと思っている。なぜなら――
テラスで読書を楽しんでいたアンジェリカの耳に、パタパタと廊下を走る聞き慣れた音が流れ込んでくる。小さく息を吐いたアンジェリカが、親指でこめかみを揉んだ。
「ママ、ただいま!」
勢いよくテラスの扉を開け顔をのぞかせたパールが声をかける。
「おかえりパール。廊下は走っちゃダメよ?」
「うん! ねえ、大ママは!?」
「お母様? 書斎にいるんじゃ――」
「わかった!」
最後まで聞くことなく踵を返したパールは、再びパタパタと足音を鳴らしながらテラスをあとにした。その様子を見たアンジェリカが深くため息をつく。
はぁ……やっぱりこうなると思ってた。アルディアスを霧の森からここへ連れてきたときも、パールはしばらく彼女にべったりだったしね……。
まあ、パールがお母様に懐いてくれるのは嬉しいけど……私の相手をしてくれる時間が少なくなるのは正直困る!
ちなみに、「大ママ」という呼び方はアンジェリカが提案したものだ。メグの前でパールから「何と呼べば」と聞かれたアンジェリカが、「おばあちゃんって呼んであげなさい」と口にしたところ、メグから殺されそうな目を向けられたためである。
悶々としつつ再び読みかけの本へ目を落としたアンジェリカの耳に、パールとメグが楽しげに会話しながら二階から降りてくる声が聞こえた。どうやら庭へ向かうらしい。
庭へ向けているアンジェリカの視界に、メグとパールの姿が映りこむ。楽しそうに笑顔で話している娘を目にし、「ぐぬぬ」と唸るアンジェリカ。
「あ、ママー! 大ママが私の魔法見てくれるんだってー!」
手を振りながら満面の笑みを浮かべるパールに、アンジェリカは複雑な思いを抱く。魔法ならいくらでも私が見てあげるのに! と心のなかで叫んだ。
「そ、そう。よかったわね」
顔を引きつらせながらも何とか口を開く。
「アンジェー。あなたの魔法も見てあげるわよー?」
「い、いいですよ、私は。もうお母様から教えてもらうことなんてありませんし」
パールをとられたような気になり、アンジェリカはついそっけない物言いをしてしまった。もちろん、自分でも大人げないことは理解している。が、アンジェリカは忘れていた。母親が自分以上に大人げない性格であることを。
「へえ……ずいぶん生意気なことを口にするようになったものね。アンジェ」
母親の体から黒々とした魔力が立ち昇るのを感じ、アンジェリカの全身がぞわぞわと粟立った。
「や……その……」
「ちょっとこっちいらっしゃい。ごめんね、パール。ちょっとだけ待っててね」
にこっと笑みを向けるメグに対し、パールは頬を引きつらせながら「う、うん」と返事した。渋々といった様子で庭へ出てきたアンジェリカに、メグが鋭い視線を向ける。
「実家を離れているあいだに、あなたがどれだけ成長したか見てあげるわ」
「……言っておきますけど、知りませんからね?」
「ふーん……模擬戦で私に一度も勝てなかった小娘が、ずいぶんと自信をつけたものだこと」
「ぐ……! 子どものころと今では違います!」
火花を散らしあう二人のそばでオロオロとするパール。ここに、最強の娘と最凶の母による仁義なき戦いが始まろうとしていた。