第百八十四話 意思表示
静寂が支配する空間に底冷えするような冷気が漂う。夜の支配者たる吸血鬼、その頂点に君臨する真祖の三皇子ですら、肌が粟立つのを感じた。
彼らの前に立つ美しい顔立ちをしたメイドの体から、殺気混じりの魔力と冷気が立ち昇る。真祖の三皇子を戦慄させているメイドこそ、アンジェリカの忠実なる眷族であり、真祖一族を長きに渡り支えてきたバートン一族の嫡女、アリア・バートンである。
「……もう一度仰っていただけますか?」
かつての側近から、これまで一度も聞いたことがない冷たい声を聞いたヘルガが唖然とする。それは、キョウやシーラも同様だった。
妹であるアンジェリカとともに一族のもとを離れて長いとはいえ、まさかこうも明確な殺意を向けられるとは考えてもいなかったのだ。
「……アリア、どうか聞いてほしい。私たちとて、何の理由もなくアンジェが大切にしている存在を奪おうとは考えない」
「……」
やや懇願するように言葉を紡ぐヘルガに、アリアは変わらず刺すような視線を向ける。
「ヘルガの言う通りだ。が、たしかに先ほどは私の言い方が悪かった。その点は申し訳ない」
三兄弟の長男であり、次期当主でもあるキョウが謝罪の言葉を口にしたことに、今度はアリアが驚いた。もちろん顔には出さない。
「頼むから、その殺気を抑えてほしい。そして私たちの話をどうか最後まで聞いてくれないか」
再び懇願するように口を開いたヘルガをじっと見つめていたアリアが、一度大きく深呼吸をする。やや落ち着きを取り戻したのか、全身から立ち昇る殺気と魔力が薄れてゆくのをヘルガは感じた。
「……聞いてほしい話とは?」
話を聞く心境になったことにほっと胸を撫でおろすと、ヘルガは静かに口を開き始めた。
「……アンジェが娘として育てているパールという娘のことだ。あの娘をアンジェのそばに置いておくのは危険なんだ」
「どういうことですか? パールが聖女だから、という理由だけで危険視するのであれば、私もお嬢様も決して納得はしませんよ?」
「ああ。ただの聖女であれば私たちもこのような行動は起こしていない。アンジェが聖女を自分の娘として愛で、育てていることには驚いたが……。それだけの理由で、あの子が大切にしている存在を奪おうとはしない」
「ではなぜ?」
ヘルガは、ふぅーっと細く長く息を吐くと、アリアの目を真っ直ぐに見つめた。
「……パールはただの聖女ではない。天命の聖女なんだ」
「天命の……聖女……?」
眉間を寄せたアリアが首を傾げる。天命の聖女とはいったい……? いや、待って……その名称、遥か昔にどこかで……? ダメだ、思い出せない。
「……アリア、ここからが本題だ。落ち着いてよく聞いてほしい。アンジェが娘として愛情を注いでいる聖女パール……あの子どもは──」
これまでの調査で判明したすべてを、ヘルガは事細かにアリアへ話した。途中、何度かキョウやシーラが補足の説明を入れる。
表情を変えることなく話を聞いていたアリアだったが、次第に顔色が悪くなってゆくのを自身で感じた。ヘルガたちが熱っぽく話を続けているものの、途中からアリアの耳には届いていなかった。いや、聞きたくなかったのかもしれない。
それほど、ヘルガたちが口にした内容は衝撃的であり、実に残酷な話だった。一通り話を聞いたあとも、耳の奥がずっと鳴っているような感覚に襲われ、アリアは気持ち悪くなった。
「嘘です……信じません、そんなこと……!」
肩を小さく震えさせながら、アリアが絞り出すように言葉を吐く。
「……信じたくない気持ちはわかる。私たちも同じだ。だが、先ほど話したことはすべて真実だ。父上様が七禍の思考と精神に干渉してまで調べあげた内容に、嘘偽りはいっさいない」
「ご、ご当主様が……?」
「ああ……この件では父上様も積極的に動いておられる」
アリアの顔に絶望の色が浮かぶ。ご当主様まで動いているとなれば、これはもう本気だ。それに先ほどの話についても、おそらく真実なのだろう。
でも……信じたくない。そんな、そんな酷いことってあるだろうか。あの優しいお嬢様がいったい何をしたというのか。そんな理不尽がまかり通っていいのか。
アリアの心は酷くかき乱された。たしかに、そのような事情であるなら、ご当主様やヘルガ様たちがなりふり構わない行動に打って出るのも理解はできる。でも、それでも……!
「……アリア。返事を聞かせてほしい。このままでは、本当にアンジェを失うことになってしまう。私たちは何としてもそれだけは避けたい」
「……!」
「君にとっても、アンジェはただの主人ではないはずだ。あの子を救うには、聖女パールを確実に抹殺するしかないんだ」
アリアが拳をこれでもかと強く握りしめる。手のひらに爪が食い込み、埃の積もった床に血が滴り落ちた。
「聖女パールと一つ屋根の下で暮らす君なら、いつでも手にかけられる。現状、もっとも確率が高い方法なんだ」
ヘルガ様たちの心情は察するに余りある。私だって、立場が同じならヘルガ様たちのような行動を起こしたに違いない。
だが、それでも……。私がパールを殺す? 赤子のころから本当の妹のように愛してきたパールを、この私が?
長きにわたるときを生きてきて、まさかこんな究極の選択を迫られることになるとは夢にも思わなかった。パールを生かせばお嬢様が死ぬことになり、お嬢様を生かすならパールを殺すしかない。
お嬢様とパール、私にとってどちらも大切な存在だ。天秤にかけられるようなものではない。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。
どちらも私にとってかけがえのない存在だ。お嬢様もパールも失いたくない。それに、あの二人ならきっと……きっと……!!
「……さあ、アリア。返事を聞かせてくれ。聖女パールを、君の手で殺してくれるね?」
棒立ちのまま顔を伏せたアリアに、ヘルガが返事を促す。ヘルガをはじめ、キョウやシーラも、アリアがよい返事を聞かせてくれることを一片たりとも疑ってはいなかった。
じりじりと早る気持ちを抑えつつ、アリアの返事を待つ三皇子。と、アリアが静かに顔をあげた。
瞬間、アリアの顔を見たヘルガに戦慄が走る。そこにいたのは、よく知る貼りつけたような笑顔ではなく、慈しむような優しい笑みを浮かべたかつての側近だった。
そして、優しい笑みを浮かべたまま、アリアははっきりとこう口にした。
「まっぴらごめんですわ」
刹那、ヘルガの隣から閃光が放たれ、アリアの胸に風穴があいた。血しぶきを撒き散らし、ゆっくりと仰向けに倒れるアリア。
再び水を打ったように静まり返る廃墟のなか。アリアへ魔法を放ったのはキョウだった。
埃まみれの床へ仰向けに倒れたアリアの周りに血が溢れ、またたく間に血の海ができあがった。沈痛な表情を浮かべ、奥歯を強く噛み締めるヘルガ。
そう、こうするしかなかったのだ。すべてを話した以上、協力してもらえないのならこうするしかない。今、アンジェに先ほどの話を伝えられては困るのだ。が。
長きに渡り仕えてくれたかつての側近を手にかけなくてはならなくなった状況に、ヘルガはただただ打ちひしがれた。
すまない、アリア……許してくれなどとは言わない。むしろ私たちを恨んでくれ。そっと目を伏せたヘルガは、胸のなかで何度もアリアへの謝罪を口にした。
アリアを手にかけたことで、アンジェとの敵対ももはや避けられなくなった。大切な眷族であり友でもあるアリアを失ったアンジェは怒り狂うだろう。
せめて、亡骸だけは私の手でていねいに埋葬してやりたい。それすらもアンジェは許さないだろうが。
ヘルガは、仰向けに倒れたアリアの亡骸へゆっくりと近づくと、すぐそばに跪いた。いくら真祖の眷族とはいえ、心臓を消し炭にされては生きてはいられない。
アリアの胸にぽっかりとあいた風穴を一瞥すると、ヘルガはうっすらと笑みを浮かべたままの頰へそっと手を添えた。
「……すまない、アリア」
今度は謝罪の言葉を口にすると、ヘルガはアリアの亡骸を抱き抱えようと首の後ろへ手を回そうとした。そのとき──
「離れろヘルガ!!」
「え?」
絶叫するようなキョウの声に反応し、背後を振り返ろうとした刹那、ヘルガの視界の端に信じられないものが映った。
それは、物言わぬ肉塊となったはずのアリアが、カッと目を開く様子。さらに、驚愕するヘルガの喉を切り裂かんと、仰向けになったままの状態でアリアが手刀を振るった。
「うおっ!?」
かろうじて避けたが、首の皮一枚を切り裂かれ鮮血が滴る。慌てつつも、ヘルガは素早くアリアのもとを離れ距離をとった。
「……迂闊すぎるぞヘルガ。アリアがいったい誰の眷族だと思っている」
「その通り。戦闘力だけなら父上様にも匹敵すると言われた一族最強の吸血鬼、アンジェの眷族だぞ」
頰を流れる冷たいものを感じながら、キョウとシーラが迂闊な弟へ注意を促す。目の前では、血の海に横たわっていたアリアがゆっくりと半身を起こし、立ち上がろうとしていた。
「そんな……心臓を吹き飛ばされたはずなのに、なぜ……!?」
信じられない出来事を目の当たりにし、驚愕せざるを得ないヘルガ。一方、メイド服を血に染めたアリアは立ち上がると、衣服の汚れを見て忌々しげな表情を浮かべていた。
「はぁ……またメイド服を新調しなくちゃね……」
この状況で呑気なことを口にするアリアに、ヘルガたちは何とも言えない不気味さと恐ろしさを感じた。
「ア、アリア……なぜ君は心臓を失っても生きていられるんだ……!?」
素朴な疑問を口にするヘルガに、アリアがスッと目を向ける。
「ああ、心臓ですか。私、心臓の位置を自由に変えられるんですよ。今はこのあたりですかね」
そう口にすると、アリアは両手の指でお茶目にお腹のあたりを指さした。
「バ、バカな……そんなこと……」
「まあ、お嬢様の眷族なんで」
あまりにも規格外な能力に、ヘルガたち三皇子の顔が強張る。さらに、アリアの胸にあいた風穴の内部を見やると、細かい無数の触手のようなものがゾワゾワと蠢いているのが目に入った。
ゾワゾワと不気味に蠢く触手がどんどん肉体を再生してゆく。わずか十数秒も経たずに、アリアの胸にあいた風穴は完全に塞がってしまった。
信じられない光景を目にした三皇子だったが、突然シーラが天に片手をかざした。廃墟となった教会の建物全体が光に包まれてゆく。
「……魔法禁域、ですか」
感情に乏しい声でアリアが呟く。魔法の発動を禁じる高位魔法の一種だ。
「ああ。転移で逃げられては困るからな」
「逃げる? その心配は無用です」
シーラをちらりと見やったアリアは、手首にはめていた細いブレスレットを取り外す。それを手のひらにのせると、宙に浮かんだブレスレットが直径一メートル程度に広がった。
「まさかそれは……アイテムボックスか……?」
「はい。アイテムボックスを魔道具化したものです。魔法が使えない場面でも困らぬよう、常に身につけていました。まあ、将校時代の嗜みですね」
そう口にすると、アリアはアイテムボックスに上半身を突っ込み、ゴソゴソと何かを探し始めた。予想外の行動に、顔を見合わせて困惑する三皇子。
「えーと……これとこれ、あ、これもいいかな……よし」
ぶつぶつと呟きながら目的のモノを探し出したアリアが、アイテムボックスから体を引き抜く。
小脇に抱えているのは、十数本に及ぶ剣。アリアはヘルガたちに背中を向けると、小脇に抱えた剣を一本ずつ床に突き刺してゆく。どれも凄まじい業物だ。
まるで墓標のように突き立てられた何本もの剣を見て、ヘルガたちは戦慄した。
そう、これはすべての剣が使えなくなるまで徹底的に戦うという、明確な意思表示。それは、紛れもないアリアからの宣戦布告だった。