第百七十六話 嵐の前の
「ふぅ……美味しかったです」
愛娘に似た少女は、満足げな表情を浮かべながら口元をハンカチで拭った。結構な量を注文したはずなのだが、テーブルの上に料理は残っていない。
「そ、それはよかったわ」
パールに匹敵する見事な食べっぷりにやや引き気味のアンジェリカ。もはや血族であることは疑う余地もない。
それにしても、なおさら謎が深まった。パールは旧ジルジャン王国の魔の森、メルはデュゼンバーグ、そしてイングリスはここラディック王国。
パールにメル、イングリスの三人は高い確率で姉妹だろう。昔から、人間が口減らしのために子どもを捨てることはよくあった。
だが、三名の赤子をそれぞれ別の場所へ放置したのは何故なのか。深い理由があるのか、それともまったく意味などないのか。しかもパールにいたっては聖女だ。
それに、三人とも背格好や髪質、髪色、魔力の質などは似ているが、顔立ちや性格などが違いすぎる気がする。
パールはぱっちりとした目元だけど、メルはいつも眠そうな顔つき、イングリスはやや目つきが悪い。性格も三者三様だ。
「……どうかしたのですか?」
イングリスに怪訝そうな目を向けられ、思わずハッとするアンジェリカ。
「な、何でもないわ。お腹は満足?」
「ええ。美味しくいただきました。ありがとうございます」
最初はちょっとキツい子だなって思ったけど、こうやって話してみるととても礼儀正しくていい子だ。きっと両親の躾がしっかりしているのだろう。
「それはそうと、イングリスは湖で何をしていたの? あなたも散策?」
「まあ、そんなところです。私が通っている学園はここのすぐそばにありまして。授業終わりによくここへ来ているんです。今日も授業が早く終わったのでちょっと散策に」
「そうなのね」
「はい。帰宅する前に友人たちと湖で泳ぐこともあるんですが、この時期は観光客が多いので控えています」
イングリスがちらりと遊歩道へ目を向ける。さすが人気の観光地だけあって、遊歩道も湖畔も賑わいを見せていた。
「そういえば、アンジェリカさんはどちらから来られたんですか?」
「私? 隣のランドール共和国よ」
「へえ。ランドールと言えば、国陥としの吸血姫と呼ばれる真祖の怒りを買って、国が滅亡する寸前まで追い込まれたのだとか。アンジェリカさんもご存じですか?」
ご存じも何も本人ですけど、とはさすがに言えない。思わずむせ返りそうになるのを堪えるアンジェリカ。
「え、ええ……あのときは結構大変だった、みたいね。うん……聞いた話だけど。ええ、うん」
「……? ん? そう言えば、おとぎ話で伝わる国陥としの吸血姫の名前も……」
マズい! どうごまかそう。とアンジェリカが密かに焦り始めたそのとき。
「おーい!! イングリス~!」
遊歩道からイングリスを呼ぶ大きな声。アンジェリカとイングリスが視線を向けた先では、三人の少女がこちらを見ながら手を振っていた。イングリスと同じ制服を着ているところを見るに、おそらくクラスメイトか何かだろう。
「あ。友人です」
友人たちに手を振り返しながら立ちあがるイングリス。
「では、私はこれで。たくさんごちそうしていただいて、ありがとうございました。観光、楽しんでくださいね」
ペコリと頭を下げたイングリスは、小走りに友人たちのもとへと駆けていく。友人たちと合流したイングリスが、楽しそうに会話している様子を笑顔で見つめるアンジェリカ。
「さて、と。私もそろそろ戻らないと、パールたちに怒られちゃうわね」
わずかに残っていたドリンクを飲み干したアンジェリカは、席を立ちパールたちが遊んでいる湖へと足を向けた。
「あ~! ママ、遅いよ~!」
湖のなかからアンジェリカを見つけたパールが声をあげる。少しご機嫌ななめなのか、リスのように頬を膨らませている。やだかわいい。
イングリスもかわいい女の子だったけど、やっぱり娘が一番ね。当たり前だけど。パール最強。娘しか勝たん。
そんなことを考えつつ、アンジェリカも湖へ入ろうとしたのだが――
パールたちが遊んでいる湖のほとりに、数人の男が倒れているのが視界の端に映りこんだ。
「ねぇ、キラ。あれ何?」
近くにいたキラを捕まえ、倒れた男たちを指さす。
「ああ、あれですか。アリアとウィズにしつこく言い寄った男の末路ですよ」
なるほど。まあそうなるわな。
「あなたは言い寄られなかったの?」
ちらりと水着姿のキラに目を向ける。アリアやウィズほど強力な武器はないが、全体的にバランスのとれたスタイルはとても魅力的だ。男が放っておくはずはないのだが。
「んー、言い寄られましたけど、私これでも五十歳超えてますからね。若い人間の男ってお子ちゃまにしか見えないんですよ」
そうか、そうだった。てゆーか、私五十歳どころじゃないけど人間やエルフの若い子とそーゆー行為に及ぶことあるんだがゲフンゲフン。
「あ、そうそう。パールちゃんも何人かの男に言い寄られていましたよ?」
キラが口にした言葉に、アンジェリカの耳がぴくりと跳ねる。眉間に刻まれるシワ。
「……何ですって? その小児性愛者はいったいどこにいるの? そんな子どもの敵は今すぐ私がこの手で――」
「ああああっと。違います違います! 多分、パールちゃんが天真爛漫でかわいいから、飲みものとか食べものをごちそうしてあげたい、って思ったんじゃないかなと!」
迂闊なことを口にしてしまったと後悔するキラ。何とかごまかしながら、アンジェリカの腕をとって湖のなかへと入っていくのであった。
――ランドールの首都リンドルには、食事メニューを充実させたバーが少なくない。この手の店は、人々の多様なニーズに応えられるため昼も夜も大賑わいだ。
「ぷはーっ! うめぇ!! で、ええと、何だったっけ?」
琥珀色の酒を喉に流し込みご満悦の男が、向かいに座る男へ赤ら顔を向ける。
「さっきの続きが聞きたいかな。えーと、教会聖騎士がやってきたあたりだよ」
二十代後半くらいに見える茶髪の男は、柔和な笑みを浮かべて話を促した。
「ああ、そうだった。あれはたしか冒険者ギルドが主催した研修の日だったかな。いきなり教会の聖騎士が来やがってよ。パール嬢を無理やり連れて行こうとしやがったんだ」
「ほほう」
「パール嬢が聖女だっつーのには驚いたけどよ、でも、あんな小さな女の子を無理やり連れて行くなんて許せるわけがねぇ」
「そうですね」
「そんなわけで、いきなり大乱闘になって、若い冒険者が一人聖騎士に斬られちまった。それでパール嬢がブチ切れたわけだが……それ以上に、アンジェリカ様がキレちまった」
「では、聖騎士は皆殺しに?」
「いや、その場では聖騎士どもを脅しただけだ。何せパール嬢が見てるし、さすがに目の前で殺しちまうのは教育によくないと思ったんじゃねえかな。まあ、怒りのあまり禍々しい魔力が漏れてたから、俺たちゃ気が気じゃなかったが」
ワハハ、と愉快そうに笑った男は、再びグラスに口をつける。
「それにしても、あんたこんな話聞いて面白いのか? てか、どうして今さらこんな話聞きたがってんだよ」
「特に深い理由はありませんよ。この町へ来たばかりなもので、いろいろ知りたいことがあって」
「なるほどねー」
「おっと。では、私はそろそろ行かなければいけないので。楽しい話をありがとうございました。これ、お礼です」
顔立ちが整った茶髪の男は、椅子から立ちあがると金貨を一枚テーブルに置いた。
「お、おい! いいのか!? 金貨なんて」
「ええ。楽しい話を聞かせてくれたお礼です」
にっこりと微笑んだ男は、そう口にするとくるりと踵を返し、出口へと向かっていった。と、男たちのすぐそばのテーブルで、読書をしつつ軽い食事をとっていた少女がパタンと本を閉じる。どこか儚げな雰囲気を漂わせる赤みがかった茶髪の少女は、店員を呼んで支払いを済ますと、男を追いかけるように店を出て行った。