第百七十三話 湖へ行こう
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「もう一度言ってもらえるかしら?」
ジャスミンの甘く爽やかな香りに心地よさを感じていたギブソンだったが、アンジェリカの一言ですぐさま現実へと引き戻された。
ここはアンジェリカ邸のテラス。昨日、仕事でラディック王国へ出向いた際の出来事をアンジェリカへ伝えるため、ギブソンは訪れていた。
「は……ええと、その……」
昨日、ラディック王国の王都リッチでパールそっくりな少女を目にしたギブソン。こんなところにパールがいるはずがない、と思ったものの、視線の先にいた少女はやはりパールによく似ていた。
ギブソンから再度説明してもらったアンジェリカが、神妙な表情を浮かべる。その少女がパールでないことは明らかだ。なぜなら、そのときパールは屋敷で誕生日パーティーの最中だったのだから。
「まあ、少し離れたところから見るとそっくりだったのですが、近くで見たらパール様でないことはすぐわかりました」
「ふうん……」
「それで、少女と友人たちの会話内容から、彼女たちが王立リッチ女学園に通う生徒だということがわかりました。学び舎は、有名なジャスナス湖のそばにあり、学校終わりや休日には湖で遊んでいるのだとか……」
「ジャスナス湖?」
あの有名な、的な言われ方をしたものの、アンジェリカには初耳である。
「お嬢様、ラディック王国の王都にある巨大な湖でございます。王都リッチは世界屈指の観光都市。なかでもジャスナス湖は地元の住人や観光客から人気が高いのだとか」
ティーポットを携えてテラスへ入ってきた執事、フェルナンデスが腰をかがめてアンジェリカに耳打ちする。
「へえ……ていうか、ギブソン。聞き流しちゃったけど、あなた幼い少女たちの会話を盗み聞きするって、あまりよい趣味とは言えないんじゃなくて?」
真正面からジト目を向けられ、ギブソンは途端に慌て始めた。
「い、いえ! いつもそういうことをしているわけではありません! パール様に似た少女がどうしても気になったものですから……!」
まくしたてるように言葉を吐きだしたかと思うと、喉を潤そうとしたのか淹れたてのハーブティーを勢いよく口に含み、舌をヤケドする羽目になった。踏んだり蹴ったりである。
「まあいいわ。それにしても、パールに似た女の子か……」
腕組みをしてしばし思考にふけるアンジェリカ。パールに似た少女と言えば、真っ先にリズの弟子であるメルが思い浮かぶ。
人間嫌いだった妹分が弟子にしてかわいがっている、パールにそっくりな女の子。魔法競技会で初めて目にしたとき、私も驚いて腰を抜かしそうになった。
しかも、パールとメルはただ容姿が似ていただけではない。境遇や魔法の才能など、二人にはさまざまな部分に共通点があった。
と、思考を邪魔するかのように、パタパタという音が遠くから近づいてくるのをアンジェリカは感じた。思わずこめかみを軽く揉むアンジェリカ。
「たっだいまー!」
元気にテラスへ飛び込んできたのは、学校から戻ってきたパールだ。ギブソンに目を向けて、「あれ?」と不思議そうな顔をしている。
「おかえり、パール。でもね、廊下をパタパタ走るのはダメよ?」
めっ、と軽く注意する。が、すでにこれまで何度も注意しているが、一向に直る気配はない。
「あ、はーい。それより、ギルドマスターさんどうしたんですか?」
「ちょっとアンジェリカ様にお話がありまして。あ、パール様。昨日の誕生日パーティーに参加できず申し訳ありませんでした。改めて、八歳のお誕生日おめでとうございます」
「そうだったんですね。いえ、ありがとうございます! で、お話って何なんですか?」
スクールバッグを床におろし、魔剣のケンを壁に立てかけたパールがちょこんとガーデンチェアへ腰かける。
ギルドマスターがわざわざ魔の森の屋敷まで足を運ぶほどの話。パールが強い興味を示さないはずがない。
「早く教えて!」と言わんばかりのキラキラとした瞳で、アンジェリカとギブソンを交互に見やる。
伝えてもいいものかどうか判断できず、ギブソンはアンジェリカの顔色を窺った。目を輝かせるパールを目にしたアンジェリカは諦めて軽く頷く。
ホッとしたギブソンが昨日のことをパールに伝えると、彼女はますます強い興味を示し始めた。が、パールが強く興味を示したのは、自分に似た少女ではなく世界的な観光名所であるジャスナス湖のほうだった。
「ねえママ! 私その湖に行ってみたい!」
「ええ~……」
困惑するアンジェリカ。彼女は、人間が川や海、湖など水のそばに行くと騒がしくなることを過去の経験で知っていた。
真祖である彼女にとって、なぜ人間が水に入って喜ぶのか、何が楽しいのかまったく理解できない。
「おお! それはいいですね。ジャスナス湖は本当に素晴らしい湖です。私も過去に何度か訪れたことがありますが、水はとても綺麗ですし、湖のなかに入って楽しむ人も多いですよ」
「へ~! そうなんだ~!」
さらに瞳の輝きが増すパールと対照的に、アンジェリカは「余計なこと言いやがって」と言わんばかりの目をギブソンに向ける。
でも、愛娘が行きたいと言っているのにそれを無下に断る勇気は彼女にはない。アンジェリカが何より恐れるのは、パールから嫌われてしまうことなのである。
それに、ギブソンの話によると、湖の近くにある学園には例のパールに似た少女が通っているとのことだし、湖でもよく遊んでいるとのことだから、もしかすると会えるかもしれない。
「うーん……じゃあ行ってみる?」
「うん! 行きたい!」
こうして、アンジェリカとパールはラディック王国の王都、リッチにある観光名所、ジャスナス湖へと行楽へ向かうことになった。
なお、そのことを夕食時に話すと、キラにウィズ、アリアまでもが「私も行きたい!」と言い始めたので、結局この三人も含めた五名で向かうことになったのである。
吸血鬼ハンター兼メイド見習いのルアージュも行きたそうにしていたが、少し手が離せない仕事があるようだ。
やや落ち込むルアージュを、ウィズやパールが「美味しいお土産買ってくるから!」と慰めるのであった。
――空気が重い。真祖、サイファ・ブラド・クインシーの忠実なる執事、ソルダーノは部屋に足を踏み入れた瞬間そう感じた。
室内にいるのは、サイファにキョウ、シーラ、ヘルガの四名。一人用の豪奢なソファにはサイファが座り、五名ほどが座れる長尺のソファには三兄弟が腰かけた。
紅茶を注いだカップを、一人一人の前にそっと配置していくソルダーノ。究極の執事との呼び名が高いソルダーノは、紅茶を淹れるのが上手なだけでなく、あらゆる所作が美しい。
ソルダーノが恭しく頭を下げて出ていくと、真っ先にヘルガが紅茶を口にした。
「はぁ……本当に、ソルダーノが淹れるお茶は美味しいですね」
キョウとシーラも同意するように頷くと、紅茶の香りを堪能してからカップに口をつける。
「……それで、キョウ。新たな情報は?」
「は、父上様。より質の高い情報を多く入手する必要があるため、情報収集に長けた者をかの国へ放っています。すでに、これほどの情報が得られました」
膝の上に置いていた書類の束をテーブルにのせるキョウ。そのなかから、一枚を取りだし読み始めた。
「ええと、アンジェリカが拠点を構えているのは、ランドール共和国の国境沿いに広がる森のなか。これは蝙蝠の情報からも明らかです。ちなみに、もとはジルジャン王国という国だったようですが、アンジェのかわいがっている娘を国王が攫ったらしく、怒り狂ったアンジェによって国王はじめ王侯貴族も皆殺しにされたようですね。で、森のなかに構えた屋敷に、フェルナンデスとアリア、弟子のハーフエルフ、ダークエルフ、吸血鬼ハンターの少女、そして娘と呼ぶパールが暮らしているとのこと」
キョウが読みあげた情報を聞き、サイファやヘルガが怪訝な表情を浮かべる。
「……ずいぶん、さまざまな種族と一緒に暮らしているのだな、アンジェは」
我が娘のことながら、行動が理解できず首を捻る始まりの吸血鬼サイファ。
「は。それだけでなく、屋敷の庭には神獣フェンリルも棲みついているのだとか」
「な、なに? アンジェがフェンリルを手なずけている、ということですか?」
思わず素っ頓狂な声を出したのはヘルガ。
「いや、どうやらそのフェンリルは、アンジェが娘としてかわいがっているパールという娘がテイムしているようだ」
「バ、バカな……いくら聖女とはいえ、神獣を人間がテイムするなど……」
驚愕の表情を浮かべるヘルガ。口数が少ないシーラも、明らかに驚いている。
「……『天命の聖女』であればさもありなん」
口を開いたサイファへ、三兄弟が一斉に視線を向ける。七禍の一柱、マモンの口からもたらされた信じがたい情報。
「そう……でしたね」
「うむ。キョウ、続きを」
再び報告書へ視線を落としたキョウは、伝える必要がある情報を取捨選択しつつ伝えた。
「とりあえずは、こんな感じです」
「うむ、ご苦労」
頬杖をついたまま報告を聞いていたサイファが、姿勢を正して三兄弟に視線を向ける。空気が張り詰め、三兄弟も背筋を伸ばした。
「……最悪の事態まで二年の猶予はあるものの、トリガーがいつ起動するかは不明だ。そのような危険な娘、『天命の聖女』をいつまでもアンジェのそばにいさせるわけにはいかぬ」
全員が力強く頷く。
「迅速かつ確実に始末しなくてはならぬ。たとえ、それでアンジェの怒りを買い絶縁されようとだ」
「父上様。この場にいる全員が理解しております」
「……ああ、そうだったな」
「ただ、父上様。このこと、母上様には伝えなくてよろしいのでしょうか?」
サイファの妻であり、アンジェリカの母親である真祖、メグ・ブラド・クインシーにも情報は伝えてある。だが、サイファたちがパールを狙おうとしていることはまだ伝えていない。
「まだ……今は話さんほうがよいだろう」
母親にとって娘は特別な存在だ。同性である娘は、母親にとって自身の分身にも等しい。
自身が娘をもつ母親だからこそ、娘に対する母の愛情をメグは痛いほど理解している。アンジェリカを救うためとはいえ、彼女から愛する娘を奪おうとする行動に、メグが素直に賛同するとは思えなかった。
「メグには、いずれ私から直接話す。今は決して伝えるでない」