第百六十九話 ごめんなさい
悪魔侯爵ドラゴは狼狽していた。それなりの使い手である冒険者たちを退け、今からとどめをさそうとしたところ、突然その男は目の前に現れた。
服の上からでも分かる屈強な体つきに精悍な顔。身に纏う雰囲気も只者ではない。悪魔侯爵として、これまで大勢の強者と対峙してきた。にもかかわらず、自然と膝が笑う。過去に干戈を交えてきた者たちとは明らかに何かが違う。そう、幾たびも戦場で死線を越えてきたかの如く、歴戦の勇者だけが纏える雰囲気。
「な……何者だ……」
やっとのことで絞りだした、最初の言葉がそれだった。
「……私の名はフェルナンデス。真祖、アンジェリカ・ブラド・クインシー様の忠実なる執事です」
「な……真祖の……執事……?」
驚愕のあまり思わず後ずさるドラゴ。なぜ、なぜここに真祖の執事が? やはり、この場所は真祖に何かしらの関係があるのか?
「フェ、フェルナンデスさん! どうしてここに!?」
突然の乱入者に驚いたのはドラゴだけではなかった。すんでのところで助けてもらったキラも、驚きの表情を浮かべている。
「……キラ。お嬢様の弟子でもあるあなたが何というだらしのないことでしょうか。この程度の悪魔族にいいようにやられてしまうとは」
「う……すみません……」
「まあいいでしょう。ここへ来たのはただの付き添いです」
「付き添い……? それって――あ、危ない!!」
キラと会話するために、ドラゴへ背を向けていたフェルナンデス。その背後から、ドラゴが鋭い爪を振りかざして襲いかかった。キラは思わず息を呑んだ――が。
「危ない……とは、何のことですか?」
「ぐ……ぐぐ……!」
何と、ドラゴが横なぎに薙いできた爪を、フェルナンデスは振り返りもせず指先だけで止めてしまった。達人の神業を目にしたような気持ちになって、キラをはじめとした冒険者たちの目が点になる。動きを止められたドラゴがもがくが、フェルナンデスはそのまま背を向けたまま後ろ蹴りを腹に見舞った。堪らず吹き飛び地面をゴロゴロと転がる。
「ぐばあぁあああ!!」
派手に地面を転がったドラゴのほうへ向き直るフェルナンデス。その表情にまったく変化はない。
「……さあ、立ちなさい」
「く……くそ……! 真祖一族の動きが活発になっていることは知っていたが……。そして、我々の動きに呼応するように真祖に所縁ある者がここへ現れた……となると、やはりベルフェゴール様はすでに貴様らの手にかかったと考えるべきか……!?」
地面に片膝をついたまま顔を歪めたドラゴは、苦々しそうに言葉を吐き捨てた。その言葉に、フェルナンデスの眉がぴくりと跳ねる。
「……真祖一族の動きが何と仰いました……? それにベルフェゴールですと……? いったい、どういうことですか?」
下唇を噛みながら忌々しそうな表情を浮かべるドラゴに、フェルナンデスの冷たい視線が突き刺さった。
――愛する妹をすんでのところで助け、転移で素早く空へと避難したアリア。その彼女は、たった今かわいい妹であるパールから事情を聞かされたばかりであった。
「ふーん、なるほどね。面倒くさいから殺しちゃおうと思ったのに」
空中でパールを抱きかかえたまま、物騒なことを平然と口にするアリア。
「ダ、ダメだよ、お姉ちゃん! マオ君だって、なりたくてああなったわけじゃないんだから!」
「でも、軽々しく悪魔と契約した挙句、自我を奪われそうになって、しかもあなたを攻撃したんでしょ? 私にとっちゃそれだけで消し去る理由ありありなんだけど」
「絶対にダーメー!!」
苦笑いを浮かべたアリアが、ジタバタと暴れるパールをお姫様抱っこに抱き直す。
「はぁ……分かったわよ。えーと……あの子っていつ悪魔と契約したの?」
「え……? よく分からないけど、つい最近のことだと思うよ……?」
「……そう。なら何とかなるか。パール、ちょっと自分で浮遊できる?」
頷いたパールがアリアの手を離れ、ふわふわと宙に浮く。そのそばで、アリアは苦悶の表情を浮かべて悶えているマオへ向けて自由になった手をかざした。
「……ほんと、パールを攻撃するだなんて、ほんとは万死に値するんだけどね」
いまだぶつくさ言いながら、アリアは魔力を練った。そして――
「……『契約無効化』」
魔法を詠唱すると、マオの足元に魔法陣が展開し、その体が光に包まれた。やがて光が収まり、地面へバタリと倒れ込むマオ。
「お、お姉ちゃん。どうなったの?」
「悪魔との契約を無効化したのよ。二週間以上経ってたら難しかったけどね。最近契約したばかりだって言ってたから、何とかなったみたいよ」
その言葉を聞き、ほっとした表情を浮かべるパール。一方、先ほどから妙にアリアの表情が沈んでいることにパールは気づいた。何となく、心ここにあらずといった感じがする。
「さあ、一緒に下へ降りましょ」
「う、うん……」
二人はふわりと地上へ降り立った。と、その刹那。聖域への入り口に仁王立ちしていた少女姿のゴーレムが、もの凄い勢いで迫ってくる様子がパールの視界に映りこむ。少女は、猛烈な勢いでアリアのもとへ迫っていた。マオのすぐ近くへ降り立ったパールが思わず息を吞む。
「お、お姉ちゃん危ない!!」
あのゴーレムは魔法が効かない。しかも、ママの一族に作られた可能性さえある。そんなゴーレムに本気で攻撃を仕掛けられたら、お姉ちゃんでも危ないかもしれない。地上へと降り立ったアリアは、迫りくるゴーレムに目を向けたまま、微動だにしなかった。
「逃げて、お姉ちゃん!」
せめてもの目くらましにと、パールがゴーレムへ向けて魔導砲を放とうとした瞬間――
「……え?」
パールの目に飛び込んできたのは、信じられない光景だった。ワケが分からないくらい強く、どうしようもなかったあのゴーレムが、アリアの目の前で跪いているのである。意味が分からず、ぽかーんとするパール。倒れているマオの手を握って聖女の力を行使すると、すぐさまアリアのもとへと駆け寄る。と、跪いていた少女姿のゴーレムがすっくと立ちあがった。
「……ご……よ……。ご……きげ……よ……」
自分よりわずかに背が低い少女の顔を真っすぐ見つめるアリア。その顔には沈痛な表情が浮かんでいる。
「……ご……げ……ごき……げ……」
「もう……忘れちゃったの……? 『ごきげんよう』でしょ? あんなに教えたのにね……」
沈痛な面持ちのまま、言葉を絞りだすアリア。対照的に、少女の顔にわずかな笑みが浮かんだのをパールは見逃さなかった。お姉ちゃん、と声をかけようとしたが、唇を嚙みしめたアリアの顔を見た途端、言葉が引っ込んでしまった。
「ごめんね、ノア……本当にごめん……ごめんなさい……」
ノアの顔をまともに見れなくなり、地面へと視線を落とすアリア。まるで呪詛のように謝罪の言葉を繰り返すその姿は、これまでパールが一度も見たことがない姿だった。
「私が……安易にここを守ってなんて言ったから……だから、あなたは何百年もたった一人で……」
アリアの瞳からこぼれる大粒の涙。足元の乾いた土が、こぼれおちた雫を一瞬で吸収した。
「本当にごめんなさい……私、何て酷いことを……」
あのとき、アイテムボックスから出したフルプレートメイルは新品だった。それが今はどうだ。おそらく、数えきれないほどの戦闘を経験したのだろう。美しかったメイルはボロボロになり見る影もない。
ノアと呼ばれた少女姿のゴーレムは、アリアを真っすぐに見つめながら小さく首を横に振る。二人のやり取りを見ていたパールは、やっとこのゴーレムを作ったのがアリアだと気づいた。
そっか、お姉ちゃんはママの眷属だし、真祖の一族みたいなものなんだよね。ゴーレムが使っていた魔法陣が、ママや私が使うものに似ていたのも、そういう理由だったんだ。うんうん、と一人納得するパール。
「つき……の……は、な……さい……て……る……。ま、た、見て……」
「うん……うん……ありがとう、ノア……」
思わずもらい泣きしそうになったパール。こういうシーンには弱いのである。ちょっぴり瞳に滲んだ涙を服の袖で拭おうとしたそのとき――
「ふむ。計画とは違うが、まあよしとしましょう」
突然、男の低い声が響き、パールたちは驚いて声のしたほうへ目を向けた。先ほどまでノアが仁王立ちしていた聖域への入り口。そこへ、ロマンスグレーの髪を頭へべっとりと撫でつけた痩身の男が立っていた。
「だ、誰?」
「これはこれは、お嬢さん。私は、悪魔公爵ロンメル。悪魔族を統治する七禍が一人、ベルフェゴール様直属の配下です」
よく見ると額から二本の角を生やした男。紛れもなく悪魔族である。しかも、ただの悪魔ではないことは明らかだ。キラたちと戦っていたドラゴとは格が違う。悪魔公爵って言ったよね? それってきっと偉いほうなんだよね、きっと。そんなことを考えるパール。と、ロンメルを睨みつけていたノアが、風を巻いて猛烈な勢いで迫った。
「ふむ。守護者のゴーレムですか。たしかに、これは私の手にも少しあまりそうだ」
落ち着き払った様子の悪魔が魔力装甲を展開させる。分厚い魔力装甲に勢いよくぶつかったノアは、そのまま吹き飛ばされてしまった。
「ノア!」
地面を転がるノアに心配そうな目を向けるアリア。
「メイド服のお嬢さんも手強そうだ。まともに戦えば私でもひとたまりもないだろう。だが、少しのあいだ接近を阻むくらいのことはできる」
ロンメルは後ずさるように洞窟のなかへ入ると、入り口に堅牢な魔力装甲を展開した。魔力を集中させて作ったらしく、相当な分厚さに見える。再び猛烈な勢いで駆け寄ったノアが、魔力装甲へ強烈な飛び蹴りを見舞った。が――
「うそ、びくともしない……?」
強固すぎる魔力装甲に、呆れてしまうパール。一方、長きにわたり聖域を守り続けてきたノアの顔には、明らかな怒りの表情が浮かんでいた。パールたち冒険者と戦うときにも、そのような表情は見たことがない。まさに修羅の顔だ。悔しそうに、何度も何度も、何度も入り口を塞ぐ魔力装甲を殴り続ける。
「ふふ、ゴーレムのお嬢さん。そう心配しなくても、調べものが終わればすぐに出てきますよ。おとなしく待っていてください」
一瞬ニヤリとしたロンメルは、踵を返して洞窟の奥へと進むと、すぐに暗闇に姿が溶け見えなくなった。諦めきれず、まだ魔力装甲を破壊せんと殴り続けるノア。
「ノア……もう……」
アリアがノアのそばに近づき、言葉をかけようとしたまさにそのとき。洞窟の内部で一瞬何かがキラリと光ったかと思うと、次の瞬間とんでもない爆発が起きて分厚い魔力装甲が内部から爆散した。慌てたようにノアが飛び退く。
想像だにしない出来事に、驚きを隠せないパールにアリア。いったい何事か、と煙を吐き続ける洞窟へと目を向ける。洞窟のなかから出てきたのは、意外な人物だった。
「はあ……何なのよこいつ……」
ロンメルの首根っこを掴み、ずるずると体を地面に引きずりながら出てきたのは、パールが愛する母親であり、あらゆる種族が恐怖の対象とする真祖、アンジェリカであった。