第百六十五話 暗躍
怒りに任せガラとその一味を襲撃したパールだが、ギルドからのお咎めはなく、反対にガラは冒険者としての資格を剥奪された。一方、悪魔族ドラゴは配下から気になる情報を入手し行動を始める。
どこまでも醜い感情だ――
白い外壁の建物前に立った悪魔族ドラゴは、小さく息を吐いて空を見上げた。空に浮かぶ三日月には薄く雲がかかっている。
「……本当に、人間は愚かな生き物だ」
視線を正面に戻したドラゴは、つかつかと建物のそばに近寄り、やや朽ちかけた木製扉の取っ手に手をかけた。ギィ、と不快な音が暗闇に響く。
消毒液の臭いが充満する部屋のなかへ、足音を立てずに進んでゆく。充満しているのは消毒液の臭いだけではない。怒り、哀しみ、嫉妬。人間の愚かで醜い感情がこれでもかと部屋のなかに渦巻いている。
ドラゴはベッドで眠る男のそばへ歩みを寄せると、無感情な瞳でその顔を見下ろした。男には片腕がない。腕を奪われた屈辱。自分より遥かに強い者に対する嫉妬。男の体からは人間特有の醜く厭らしい感情が溢れている。
これほど負の感情を抱いている人間は久しぶりに見た気がする。だからこそ、我々にとっては好都合だ。報告によれば、こいつがこのような感情を抱くようになった原因は、以前聖域で見かけた人間の少女とのこと。おもしろい。
「……おい、起きろ」
冷たい瞳で見下ろしたまま、ドラゴが静かに口を開く。
「う……うう……! な、なん――!」
薄く目を開いた瞬間、見知らぬ悪魔族が自分を見下ろしていたのだから、驚いて声をあげそうになるのは当然の反応である。叫ばれたら厄介だ、と言わんばかりに、ドラゴが沈黙の魔法をかけた。
「長居をするつもりはない。私が貴様に聞きたいことはただ一つ。強さが欲しいか? 圧倒的な強さだ」
ドラゴは目を糸のように細くして、ベッドに横たわる片腕のない冒険者を見据えた。一瞬、逡巡したような様子を見せた冒険者だが、まっすぐに見返しながら強く頷く。
「では、貴様に力をやろう。その代わり、私の言うことを一つ聞いてもらう。いいな?」
男が再度頷いたのを確認し、ドラゴはニヤリと口角を吊り上げた。
「では、契約成立だ」
――アンジェリカ邸のリビングでは、ダークエルフのウィズにエルミア教の教皇ソフィア、アンジェリカの従姉妹リズが歓談中であった。
「まあ、そんなわけでアンジェリカ姐さんは最近ちょっと元気がないんですよ」
ソファに浅く腰かけたウィズが、琥珀色の液体が入ったグラスを傾ける。
「聖女様が留守とあっては、仕方ないですね」
爽やかなハーブティーの香りにうっとりとした表情を浮かべるソフィア。味も気に入ったようである。
「お姉様のパール嬢への溺愛っぷりは異常ですわ。まあ、気持ちは分からなくもないですが。それにしても……まだ起きてこられないのかしら」
少し口は悪いが、アンジェリカへの親愛がそこはかとなく漏れているリズに、ウィズとソフィアは苦笑いを浮かべる。
「お嬢がいないから不眠になった挙句、体内時計も狂っちまったみたいですねー。多分、もうすぐ起きてくるんじゃないかな」
最近のアンジェリカは、夜眠れないため日中に仮眠をとることが増えたようだ。リズとソフィアが連れ立ってアンジェリカ邸へやってきたとき、まさに彼女は昼寝の真っ最中だったため、こうしてリビングでウィズとお茶をしているのである。
「そういえば、パール嬢とキラはアイオンの首都ハノイで仕事なんですって?」
リズの質問に対し、ウィズが軽く頷く。酒精の強い酒をすでに三杯以上口にしているため、頬がほんのりと紅潮していた。
「ええ。聖域の攻略とか何とか……リズさん、ハノイって行ったことあります?」
「ない……と思いますわ。というより、わたくしアイオンなどという国があったことすら知りませんでしたわ。先ほどソフィアから聞いて知ったくらいですの」
「ああ、それは仕方がないのですよ。あのあたりは、もともと国どころか町すらなかったらしいですから」
ソフィアは、アイオンやハノイのことについて知っていることをリズとウィズに話して聞かせた。と、そこへ――
「お茶のお代わりはいかが?」
にっこりと笑みを携えたアリアが、ハーブティー入りのポットをトレーに載せてリビングへ入ってきた。その後ろには、同じくトレーを持つルアージュの姿も。
嬉しそうに頷いたリズとソフィアのカップに、アリアがハーブティーのお代わりを注いでゆく。なお、ウィズは酒なので手酌である。
「アリアさんもご一緒にいかが?」
「そうなのです。アンジェリカ様もまだ起きてこないし、アリアさん一緒にお茶するのです」
リズとソフィアから提案され、顎に指をあてて考え込むアリア。
「うーん、そうねぇ……お嬢様もまだ起きないだろうし……じゃあ、一度お嬢様の様子を見て大丈夫そうなら戻ってくるわね」
そう口にすると、アリアとルアージュはリビングから出て行った。
「あ、そうそう。さっきの続きですが、もともとハノイの近辺には、美しい花が咲いていたという伝承が残っているのです」
「花……ですの? なぜ花が伝承に?」
「何でも、そこにしか咲かないとても珍しく美しい花なのだとか」
「あ、それってもしかして……月の花じゃありませんの……?」
「花の名前までは伝わっていませんが、暗闇にしか咲かない花と伝わっているのです」
と、そのとき。廊下からガシャンッ、と何かが割れるような音が聞こえた。
「あちゃ~……ルアージュの姐さん、またやっちゃったな……」
どうやら、おっちょこちょいのルアージュが、トレーからポットやカップを落とし割ってしまったようだ。メイド見習いのルアージュは、以前からこうした失敗をよくしてアリアから叱られている。
「ルアージュさん、おっちょこちょいそうですものね」
にんまりと口角をあげるソフィアに、リズがジト目を向ける。
「ルアージュさんも、あなたにだけは言われたくないと思っているはずですわよ?」
不満げに頬を膨らませるソフィアと、思わず噴きだすウィズ。そうこうしているうちに、屋敷の主であるアンジェリカが機嫌の悪そうな顔つきで起きてきたので、三人は寝起きが悪い彼女の機嫌をとるべく見事なチームワークを発揮するのであった。
――眩暈を起こしそうなほどの怒りと混乱、焦燥感。長きにわたる時を生きてきたなかで、まさか自分がこのような感情を抱く日が来ようとは。
吸血鬼の頂点に立つ真祖一族の当主、サイファ・ブラド・クインシーは玉座に腰を据えたまま宙を睨みつけた。
不快な感情に支配されている理由。それは、先日捕えた七禍の一人、マモンがもたらした情報だ。サイファは、捕獲したマモンを息子のヘルガとともに拷問し情報を吐かせた。
拷問とは言うものの、ベルフェゴールに行ったような苛烈なことはしていない。なぜなら、腕を一本斬り落としただけで、自分からペラペラと口を開き始めたのである。七禍にもいろいろいるようだ。
容易に情報を取得できたのはありがたい。が、得た情報の内容は驚くべきものだった。マモンがもたらした情報は、この私ですら絶望感を抱くような内容だった。
もちろん、すべてを信じたわけではない。悪魔族は狡猾で卑怯な種族だ。命欲しさにあることないことを口にしている可能性も少なからずある。
だから、私はベルフェゴールにしたのと同じように、マモンの頭のなかを覗いた。その結果――
マモンが話した内容はすべて真実であることが明らかになった。いや、だが本当にそのようなことがあるのだろうか……。もし真実だとすれば、あまりにも酷い話だ……。
思わず舌打ちしたくなる気持ちを抑え、サイファはゆったりと玉座から立ち上がる。まだ決断するのは早い。もっと情報が必要だ。ヘルガやキョウ、シーラたちにも先走らぬよう伝えておかねば。
「アンジェ……」
静かに愛娘の名を呼んだサイファは、意思の強そうな紅い瞳で正面を睨みつけながら拳を握った。