何者でもない
最初に断っておくけれど、ぼくは普通の人間だ。
何ら変わったところはない。
好物といえば缶コーヒーだし、タバコだって吸う。
まだ高校生だけれど。
きっかけは、タバコを買うお金がなくなったことだった。
そしてぼくの親は常識的な人間だった。
未成年のぼくがそんな嗜好を持っていることなど知らない。
どこからかお金をひねり出す必要があった。
しかし、小遣いでは足りない。
どうしようか悩んだ結果、ぼくはアルバイトをすることを選んだ。
タバコなんて、金を払って寿命を縮めるだけのものだ。
そうとわかっていても、好きなものは好きだし、自由な時間を削ってまで求めるだけの価値はあるのだ。
アルバイトを探した経験はなかった。
どうしようか考えながら数日を過ごしたある日、学校からの帰り道の電信柱に、募集の広告が載っているのを見つけた。
「配達業。給与は歩合制・配達数による。誰にでも出来る簡単なお仕事です」
そんな文章が風雨にさらされて破れかけたポスターにのっていた。
こんなのでいいかもな。
ぼくはぼんやりとそう思った。
なるべく束縛されないのがいい。
この条件なら、たぶん、タバコを吸いたくなったときに仕事をすればいいのだ。
ポスターに小さく書いてあった番号へ電話をかけてみると、男性だか女性だかわからない、中性的な声が応答した。
「どういうご用件でしょうか」
中性的な声はそう聞いてきたので、ぼくはポスターを見たこと、そしてすぐにでも働きたい旨を説明した。
「そうですか。それなら、駅前の喫茶店わかります? そこで会いませんか。面接ということで。すいませんが、うちの会社には事務所等はないんですよ」
喫茶店は古ぼけた店で、一度も入ったことはなかった。
破れかけたソファー。
暗い照明。
入ってすぐに、先ほど会う約束をしていた人を見つけた。
店内には他に誰もいなかったし、不思議と一目であの人だということがわかったのだ。
声から想像されるように、性別の判別しがたい顔だった。
いずれにせよ優しい顔立ちだった。
髪が短かったから、女性的な男性に見えた。
「先ほどの方ですね。わたし、あなたの電話に出ていたものです。モヅテと申します。それでは早速、仕事の内容の説明に入りたいんですが……」
あわてて、彼の言葉をぼくは遮った。
「あの、面接はしないんですか。いや、別にぼくとしては構わないんですが……」
「いいんですよ。そういうの、直に見ればすぐわかりますから。だから、あなたは合格。それで、仕事というのがですね……」
※※※
「そこに、配達物が入っている箱があります。さっきもいったとおり、箱の中には、届けて欲しいものがはいっています。あなたはその届け物……封筒や小包ですね。それらのものに書かれてある住所を見て、ものをお届けすればいいわけです」
モヅテは、一通り仕事について話をし、ぼくにコーヒーをおごると、駅の裏の小さな路地へ連れて行った。
仕事の内容は本当に簡単だった。
配達物に書かれた住所を見て、届け物をすればいいだけだ。
話の中に出て来たとおり、箱は路地のつきあたりにあった。
狭いその場所の暗がりにあり、通りの方から目を向けても、その箱を見つけることは出来ない。
暗い青色の、七十センチほどの小さな立方体だった。
ダンボールのように、上部が開くのだ。
「本当にこれ、近所の人への配送しか依頼が来ないのですか?」
「ええ。ここまでは、別の仕事をしている方に運んでもらっているのです。あなたはこの辺の担当ということで」
モヅテはそういってにっこりと笑った。
「じゃあ、明日からお願いします。配達物、特に期限はありませんが、やらないと給料はお支払いしないのでそのつもりで。口座に振り込まれた額に疑問があった場合、今日のようにわたしの方に電話していただければよろしいかと」
「あの」
一つ気になって、ぼくは口を挟んだ。
「ぼくが本当に仕事をしたかどうか、あなたにはわかりようがないんじゃないですか」
それを把握するのには、いくつもの障害があるように思えた。
何の変哲もないこの薄汚い箱から、ぼくは何も持ち出さないかもしれない。
持ち出しても、どこかへ捨てるかもしれない。
……一つ運べば千円もらえるというけれど、これで本当に仕事が成立するのだろうか?
しかしモヅテは簡潔に答えた。
「大丈夫です。わかるようになってますから」
「どうやって?」
「残念ながら、企業秘密です。ただ、一つだけ注意を」
モヅテは人差し指を立てた。
「仕事は仕事です。お客様の大切なお届けものを、粗末に扱わないようにお願いします」
ぼくはうなずいた。
「それはもちろん。捨てたりしませんよ」
「いい心がけです」
モヅテは微笑み、ではこれで、そういい残してぼくの目の前から去っていった。
※※※
そんなわけでぼくのアルバイトがはじまった。
他愛のない仕事だった。
配達物はどれも箱から歩いていける距離で、たまに住所を見つけるのに難儀したけれど、慣れてしまえば手こずることは少なくなった。
学校帰りに出来る、至極簡単で程よい実入りのある、いいアルバイトだった。
だが、この仕事はやはり妙だと感じるまで、そう時間はかからなかった。
配達物は、大抵の場合、一日に一つだけだった。
箱に入っているのは封筒で、どうも中には手紙が封入されているらしい。
そういったものは、依頼先の住所へ行き、郵便受けへいれた。
普通の郵便で出さないわけはなんなんだろう、なんて考えながら。
たまに大きなものがある。
小包というのだろうか。
そういったものは、一度モヅテに了解をとって、以降は玄関先に置くようにした。
いちいち配達先の人間に手渡しするのが面倒くさかったからだ。
だがある日、配達先の玄関に、そこの住人らしき主婦が立っていた。
そこでぼくは、学生服であることに引け目を感じながらも、主婦へ配達物を手渡した。
ごく普通の、茶色い小さな封筒だった。
「お届けものですよ」
主婦は、いぶかりながらもその手紙を受け取った。
はじめは首を捻っていたけれど、裏にある差出人の名前を見て顔色を変えた。
ああいうのを、蒼白、と表現するのだろうか。
目を白黒させながら、主婦はぼくに聞いた。
「……あの、どこでこれを?」
「どこでって……」
ぼくは口ごもった。
箱の場所は決して教えてはいけないと、モヅテに言われていたのだ。
「詳しくはいえないんですけど、ちょっと仕事の関係で預かったんです」
「何かの冗談なんですか?」
鋭い口調で主婦がいった。
は? とぼくが聞き返すと、主婦は怒ったような手つきで乱暴に封筒を開けた。
どうも何か不愉快なことをぼくはしてしまったらしい。
戸惑いながらもそこに立って、主婦の様子を見ていた。
主婦ははじめ、にらみつけるようにその手紙を読んでいた。
だがやがて、小さな嗚咽を漏らしはじめると、目じりを押さえながらぼくに言った。
「これ、一体なんなんですか。どうして娘が……。ねえ、あなた、誰なんですか?」
※※※
最初に言ったとおり、ぼくは普通の人間だ。
何者でもない。
そのとき、ぼくは主婦に事情を話さなかった。
ただのアルバイトだ、なんてことはとてもじゃないけど言い出せなかったのだ。
けれど主婦の方は、そうはいかなかった。
何も答えないぼくに、根掘り葉掘り質問をかけた。
それらの質問に答えなかった代わりに、ぼくは主婦自身とさっきの手紙について多くのことを知った。
手紙は、娘から来たものだった。
内容は、主婦とその家族にあてたものだ。
文面までは詳しく聞かなかったけれど、それは確かに彼女の文字で、感謝の言葉がつづってある。
大事なことが一つある。
主婦の娘はすでに、病気で亡くなっているのだ。
そのことを知った後、それ以上何かを聞かれる前に、ぼくはさっさと主婦のそばから逃げ出した。
なんだかわけがわからなかった。
大いに動揺していた。
あの手紙は、確かに今日、箱に入っていたものだ。
この世にいないはずの人間が、どうやって手紙を書けるのだろうか?
その場を離れてから、ぼくはすぐにモヅテに電話した。
この手紙は、一体どこから来ているのか。
慌てながらそうたずねた。
モヅテは、相変わらずの冷静な声でぼくの質問に答えた。
「企業秘密です。そこがわたしたちの仕事の、一番肝心なところですから。おそらく、あなたは何か不思議なことにあわれたのでしょうね。でも、残念なことに、教えるわけにはいかないのです。……というか」
モヅテはそこで間をおいてから、ゆっくりといった。
「わたしも知らないのです」
※※※
と、まあそんなわけだ。
ぼくは未だにこの仕事を続けている。
理由はもちろん、タバコを吸うためだ。
あれからいくつも、あの主婦の件と似たようなことを経験した。
その結果、わかっていることが一つある。
これらの手紙は、この世から届いているものではない。
だけど、それだけだ。
なんだかわからないけれど、給料は入るし、謎の届け物以外に妙な事件と遭遇することはない。
モヅテと同じ様に、ぼくも何も知らないし、それでも届け物は依頼者の意思によって配達先に届く。
ぼくはなんだか、それでいいじゃないか、という気がしている。
ただでさえ多くの悲しみがあるのだから、少しぐらいの抜け道があったっていい。
たぶんこの世は、そういうものなのだ。