26.あっちには、いなかった
兄、琉生の仕事は、こっちに帰ってきた三日後から始まった。
海外での実績を買われてのことだろう。大学病院で外科医として働くことになった兄。
立派で、賢くて、優しい兄。親の言うことを聞いて、きちんとその道を歩いている。
それに比べて、私は――。
「ユア、茶太郎の散歩に行くぞ」
「待って、私も行く!」
その日も夕食を食べてから、クルトと一緒に茶太郎の散歩に出かけた。
兄はまだ仕事中。今夜は遅くなると聞いている。
「あはは、二人とも速い~!」
「遅いなぁ、ユアは!」
いつもの公園で走り回る二人(一人と一匹)を見つめながら、私はひっそりと置かれているブランコに腰を下ろした。
キィ、と少しさびれた音が鳴って、それを小さく前後に動かす。
「……その椅子は動くのか?」
「そうだよ、だってこれブランコだもん」
そんな私を見て、クルトがこっちに駆け寄ってきた。
茶太郎も後ろから走ってくる。
「ブランコ……?」
「そ! ここに座って、足で地面を蹴って漕ぐの」
言いながら実際にやって見せると、クルトは「危ない!」と言いながら慌ててブランコに揺られている私の肩を掴んできた。
「わっ、もう、そっちのほうが危ないから! これはそういう遊具なの! こうやって遊ぶのよ」
「……落ちない……のか?」
「落ちないよ、ちゃんと掴まってれば」
「そうか……」
「クルトって意外とヘタレだよね」
「……む? なんだ、それは」
「なんでもない! それよりこれ、子供が遊ぶ遊具で全然危なくないからクルトもやってみなよ」
「子供が……そうか……」
おそるおそるという感じで隣のブランコに座り、ゆっくり地面を蹴るクルト。
「お……はは、なんだ。大したことはないな。馬に乗るよりも簡単だ」
「でしょう?」
調子に乗って大きく漕ぎ始めたクルトは、結構楽しそう。
図体は大きいのに、この人はたまに子供みたいで可愛いのよね……。
まぁそれは、こっちの世界とクルトの世界で違うことが多いからだと思うけど。
もし私がクルトの世界に転移していたら、きっと私がクルトみたいになって、クルトがやれやれと呆れながらも色々教えてくれたんだろうな。
……でも、そもそももし私が転移していたら、クルトは私のことを助けてくれただろうか。
「……」
「ん? どうした、ユア」
黙り込んでじっとクルトを見つめた私の視線に気がついて、クルトはブランコを足で止めた。
「私、クルトのこと何も知らない」
「……」
心のどこかにずっとあったその思いが、口から自然とこぼれ出た。
「……俺の、何を知りたい?」
するとクルトから、とても穏やかな言葉が返ってきた。優しいその声は、すべてを答える覚悟があると言っているように聞こえる。
「……聞いても、いい?」
「ああ、いいぞ」
「なんでも聞け」と言うように笑って歯を見せるクルトに私も小さく微笑んで、この際だから聞きたかったことを全部聞いてみることにした。
「クルトって、いくつなの?」
「二十歳だ」
「へぇ……じゃあ、好きな食べ物は?」
「ユアの作る肉じゃが」
「もう……、誕生日は?」
「二月二十二日」
「……ふぅん」
クルトの世界にも暦はあって、それはこっちの世界と同じように流れているのだろうか。
「……クルトは、向こうの世界に、早く帰りたい?」
「……」
クルトがこっちに来たばかりの頃、自分には大切な任務があるから帰らなければならないと言っていた。
今でも、やっぱりそう思っているのだろうか。
「……そうだな」
少し間を置いて答えたクルトの返事に、私の胸は一瞬ずきりと痛む。
「なぜ俺はこの世界に来てしまったのだろうかと、今でも考えることがある」
そう言って切なげに瞳を細めたクルトの表情に、「帰らないでほしい」と思ってしまった自分を憎む。
「物事には、必ず理由があるんだって」
「理由?」
「うん。たとえそのときは辛いことでも、必要だから起こるのよ」
「……」
私はこの言葉に何度も救われてきた。
クルトに言いながらも、私はまた、その言葉を自分に言い聞かせていたのかもしれない。
「じゃあ、俺がこの世界に来たことにも、意味があるのだろうか」
「うん、きっとあるよ」
小さく笑みを浮かべて答えると、クルトは何か言いたげに口を開いてから、自嘲するように口元で笑った。
「……クルトは、あっちの世界に恋人とか……いた?」
思い切って聞いた質問に、変な汗が流れてきた。こんなこと聞くなんて変に思われただろうかと、一瞬にして後悔する。
「……いなかったよ、あっちにも」
「そっか……」
「……」
けれどクルトは、私の目を見つめてはっきりと答えた。その視線に顔が熱くなる。
なんとなく彼の顔が見れなくなって、俯き気味に次の質問をする。
「じゃあ……、好きな人は? あっちに……いた?」
これも、聞いてから少し後悔した。
だってもしいたと言われたら、ただ墓穴を掘るだけなんだから。
「早く会いたい人とか、いるよね、絶対。クルトかっこいいし、向こうでもモテたでしょ――」
「いなかった」
だけど、誤魔化すように続けた私の言葉に被せるように、クルトは即答した。
「……そっか、そうなんだ」
とりあえず私は無駄にへこまずに済んだようで、ほっと息が漏れる。
「――あっちには、な」
「え?」
けれど、呟くように発せられた次の言葉が耳に届いた途端、ドクンと大きく鼓動が跳ねた。
「あっち、にはって……?」
真意を探ろうと彼を見つめれば、クルトも私に視線を向けていて、数秒見つめ合う形になってしまった。
「……」
うっすら開いた彼の唇が、何か言葉を紡ごうとしているように固まっている。
クルト……もしかして…………。
「――まぁ、そういうことだ! そろそろ寒くなってきただろう? 茶太郎も待っているし、帰るか」
「……うん」
何か、誤魔化されたような気がする。
クルトはわざとらしく私から目を逸らして茶太郎に歩み寄り、顔周りをわしゃわしゃと撫で回した。
クルトは今、何を言おうとしていたの――?
気になるけれど、私もその疑問を口にすることはできなかった。




