下.東方、そして遥か東で
セミは漢字で蝉と書く。
中国の主要なセミとしてはクマゼミ、コマゼミ、ニイニイゼミ、ミンミンゼミ、アブラゼミなどがいる。中国全土(寒冷地除く)で見られるものもあれば、ニイニイゼミやハルゼミのように限定的に見られるものもある。木では無く草に止まるセミもいて草蝉と呼ばれていた。
詩経によれば蜩は旧暦5月に鳴くというからヒグラシにしては早いが、特定はできない。
説文には馬蜩と寒蜩が挙げられている。馬蜩が最も大きい種つまりクマゼミであり、寒蜩が8月頃から鳴く青赤のセミであるとしか分からない。日本の種と近いヒグラシは台湾で見られる。
朝に鳴く種と夕方に鳴く種も区別されていた。芸文類聚に引く風土記によれば7月の朝に鳴くのが蟪蛄、夕方に鳴くのが寒螿であるという。
人名にも蝉の字を用いられることがある。貂蝉は有名だが、これは本来漢代において侍中や常侍が被る冠の装飾の名称で、蝉の羽根を模した翡翠の耳珠と貂の尾の飾りからなっていたという。
翡翠のセミの珠は商代の頃から作られていて、漢代の頃には死者の口の中に含まされていた。論説の一つによれば永遠の死後の生活を意味するものだという。
古代中国においても蝉は露を飲み、そして何も食べないと考えられていた。
魏の曹植は「蝉賦」で欲が無く何も食さず音楽に明け暮れることを清貧であると評した。
また呉の陸雲は「寒蝉賦」において、露を飲んで黍を食べず、居を持たず鳴く季節を変えないセミは、清廉で慎ましく信頼できると書いた。
新修本草には雌のセミは鳴かないとある。中国では早くに理解されていたようだ。
セミに関する賦や詩は古代から大量に書かれていた。
屈原の楚辞には「歳が暮れても未だに暇で、セミは悲しく鳴いている」とある。また文選の「秋興賦」には「蝉は寒さの中で幽かに鳴き、雁は飄々と南に飛ぶ」とあり、玉台新詠では魏の文帝が清河の賦で「寒々しく寒蜩は鳴き、枯れ枝を抱く」といい、秋の訪れと共にその威勢を失う儚さを詠う。
秋を迎えるセミの様子は賦・詩の主題として良く使われていた。
唐代には白居易をはじめ多くの人々がセミの詩を書いている。
白居易の「早蝉」には「六月七日、川の畔でセミが鳴き始める。茂るカナメモチの葉裏で、薄暮れ時に2つ3つの鳴き声。髪色の衰えは催され、また故郷への情に動かされる。殊に西風は未だ起きず、秋が生まれるに先んじて秋を思う。かつて東宮にいた頃を思い出すことは、エンジュの花の下で聞いたこと。今朝思いは限りなく、雲々と樹々は湓水の城を取り囲んでいる」とある。
夏の初めのセミについて詠う「早蝉」の詩は他にもいくつか見える。
雍裕之の「早蝉」には「一声は溽暑を清め、行くところ時を過ぎさるを促す。志士の心は偏に苦なり、初めて聞きて独り涙を流す」という。
どうやらセミの鳴き声は士人に清涼感を与えていたようだ。
古代中国には「セミが殻を脱ぐようにして」遁走するという言い回しがあるが、これは後に道教や仏教で現世生活からの解脱を意味する言葉として用いられた。
また蝉の羽根の薄さは良く知られていて、特に薄いものを表現するとき蝉の羽根で例えられた。
テキスト上の蝉の絵画の最初は古画品録で、顧駿之と丁光が雀蝉画を描いている。しかし漢代の画像石には蝉取りを描いたものがある。
蝉取りは昔から行われていた。
荘子の達生編には楚国の老人が蝉取りをする逸話があり、また論衡では著者王充の子供の頃の友人が雀獲りや蝉取りで遊んでいたと記されている。
魏の曹植の「蝉賦」によれば、小麦粉と水で粘り気を付けた長竿を使って捕まえたという。
セミは少なくとも商代から食用にされていた。
斉民要術にはセミの調理法が書かれている。
セミ肉の調理法として「叩いてから火で炙り、細かく分けて酢を注ぐ」ほかに「蒸してから、細かく切った香草を載せる」「沸騰した湯に入れてすぐに出し、細かく分けてコリアンダーと蓼を載せる」と三種ある。
随園食単には、生姜風味の醤漬けを作るのに古の方法としてセミの抜け殻を入れるのがコツであるというが、蝉自体の料理は殆どの料理書には確認できない。一般社会はともかく料理を嗜む社会階級において古代を過ぎると食べられなくなったのだろう。
蝉は薬にも用いられた。
古代中国において備急千金要方では、逆子や子供の風邪の薬の材料として用いられたとあり、新修本草によれば子供の病気に総合的に効くとされた。
唐代には都の道楽人が獲ったセミを薬と称して売りさばいたという話が清異録に見える。
西洋ではアンリ・ファーブルがセミの抜け殻の利尿剤としての効果に触れているが、元を辿ると古代ギリシャの医学者ガレノスが焼いてペースト状にしたセミに利尿効果があると説明している。
どちらも蝉の生態・特徴に基づいて考えられた医療効果であろう。
新大陸では17年ゼミと13年ゼミが大発生することが知られるが、実のところ毎年のように発生している。ただし地域ごとに発生する年は異なる。
かつてピューリタンたちは蝉を知らず、周期ゼミの大発生に際してセミをイナゴの一種と捉えた。彼らは長くセミとイナゴの区別を理解しなかった。
北アメリカの先住民にとっては飢饉のときの食料源であり、神聖な恵みとしてバターで炒めて食べていた。ホピ族の伝説ではグランドキャニオンを創造したという大災害の折に、セミの奏者がセミの音のフルートを吹いて人々を導いたとされる。また一部の部族にとっては周期ゼミの発生が不吉の象徴だったという。