第25話、嫉妬
十五になると、教育も多岐に渡った。あと一年で成人を迎えるのだ。そうなれば、いよいよアレクシスは政治に関わることになる。政治学はより専門的になり、法律も加わった。主だった貴族たちの爵位や領地、顔の特徴や歳まで覚える。
授業の合間や空いた時間では、内容を復習し合ったり、感想をいいあったり、時には他愛のない楽しい会話をしていたが、最近はそれもない。クリスティーナはため息を吐いた。
今、アレクシスと一緒に来ている場所は、近衛騎士団の練習場だった。自分とは離れた場所で、同じ年頃の騎士たちと楽しげに笑うアレクシスを見て、クリスティーナは顔を俯かせた。
最近は専ら、騎士舎に出入りし、騎士たちと刃を交えて交流している。クリスティーナも同行するが、着けば途端にアレクシスは彼らのもとに行ってしまう。
装ってはいても、同じ年頃の少年たちには、やはり勝てないのだろうか。
(このまま、わたしはアレクに必要のない存在になるのかな)
悲しげに俯いていると、横から声がかかった。
「どうしたの? なにか元気がないね。悩み事?」
顔を向ければ、馴染みのあるバートがクリスティーナの顔を覗き込んでいた。
慌てて、答える。
「いえ――いつまでも、剣の腕が上達しないので、それでちょっと」
クリスティーナは誤魔化した。けれど、その言葉は事実、クリスティーナに当てはまった。同じ時期に習ったアレクシスはとうに、バートやマティアスに負けないくらい剣の腕前を上げている。かわってクリスティーナはどうやっても、バートに勝てたことがない。日課の腕立て伏せは毎日行っているが、根本的な筋肉の付き方が違うのだ。それを以前、腕を捲くりあげたアレクシスの二の腕を見て、思い知った。自分の細い腕と並んだ時の差が明確で、クリスティーナが決して上着を取らない理由はここにもある。ふとした瞬間に、女の体だとばれるようなことはあってはならない。それと同じくらい、アレクシスが自分とは違う生き物になっていく焦りがあった。出会った頃はほとんど、差はなかったのに。
物思いから引き揚げるように、バートが口を開く。
「クリスは前より随分、上達しているよ。そんなに思い詰めることなんてないと思うよ。何も殿下を体張って守れなんて、言われてないよね。それはわたしたち騎士の役目だよ。クリスは今のままで充分だと思うよ」
バートはクリスを呼び捨てるほど、今では仲良くなっていた。バートの言葉はクリスティーナの悩みの答えではなかったが、思い遣るバートの優しさが嬉しく、クリスティーナは微笑んだ。
「ありがとうございます」
「まあ、そんなに気になるなら、わたしが今から手合わせしてあげるよ」
バートの親切心からの提案に断るのも忍びないうえ、手持ち無沙汰だったクリスティーナは笑顔で頷いた。
「よろしくお願いします」
「じゃあこっちでやろうか」
バートが先だって、騎士たちの長椅子だけが並んだ簡素な休憩所――アレクシスたちから離れて、クリスティーナを招いた。
クリスティーナはそれからしばらく、バートと剣を撃ちあわせていたが、バートが手を止めた。
「クリスは体幹を鍛えればいいんじゃないかな」
肩で息をして、クリスティーナは首を捻った。
「体幹ですか?」
「今でも毎日、腕立て伏せはこなしているんだろう? それなら腕だけじゃなく、体幹を鍛えるようにすれば、今よりもっと相手の力に耐えられるようになるんじゃないかな」
「どこを鍛えれば?」
体幹と言われても、初めて聞く単語にクリスティーナはわけがわからない。バートが剣を収めて、近寄ってくる。
「体幹っていうのは、お腹の中心――」
バートがクリスティーナの腹部に手をやる。
「ここだね」
「ここ――」
クリスティーナは自分のお腹に当てられた、バートの手を見下ろす。バートが後ろに回って、お腹を押さえる。
「ここを意識して、呼吸してごらん。ほら息を吸って――」
クリスティーナは息を吸いながら、腹部を意識して膨らませる。
「次は吐いてー」
バートの掌がクリスティーナの腹部を呼吸に合わせて、押してくる。指示に従い、息を吐きながら、できるだけお腹をへこませた。
「そうそう、そうやって意識して呼吸してごらん。自然にできるようになれば、体幹も鍛えられる」
「ありがとうございます」
後ろにぴったりと寄り添うバートにお礼を言った。もう離れてもいいだろうに、バートは腰から手を放さない。
「あの――」
「クリスは上背に比べて、腰が細いね。肩幅があるから、もっとしっかりしてると思った」
興味深げに腰を掴むバートに、クリスティーナは焦った。バートはクリスティーナの正体に気づいたわけでもなく、単なる興味本位で、クリスティーナの体を触っている様子だった。
放してもらおうと、バートの腕に手をかけようとした瞬間、それより早く、クリスティーナの腕を誰かが引っ張った。
よろめいて、その人物にぶつかる。
「わっ――」
驚いて顔を上げれば、怒ったようなアレクシスの顔が瞳に映る。
「アレク?」
クリスティーナは何故アレクシスがそんな表情をするのかわからず、戸惑った。そんなクリスティーナにかまわず、アレクシスはクリスティーナの腕を強引に引っ張って、歩き出した。
「アレクッ! どこに!?」
答える様子もなく、アレクシスはどんどん歩を進めていく。やがて人目につかないところまでくると、ぱっと手を離した。
「アレク、どうしたの? 痛いよ、急に」
手首を擦って、見上げれば、いつもより燃え盛っているような赤い瞳とぶつかる。今まで一度として、見たことのない表情だ。
「アレク――?」
「お前は俺の従者だろう!! 気軽にほかの男に体を触らせるな!」
その剣幕に、クリスティーナの体が凍った。アレクシスが自分に向かって声を荒げたことなど、これまで一度もなかった。衝撃で頭が一瞬真っ白になる。
混乱の嵐が吹き荒れた。何がどうしてこうなったのだろう。わけがわからなかった。
ようやく正常な思考を取り戻すと、胸に鋭い痛みが走る。その痛みはアレクシスを怒らせたことに対してか、それとも嫌われたかもしれないことに対してか。多分、両方だろう。言葉もなく見つめることしかできない。その顔が泣きそうになっている表情を作っているとも知らずに。
アレクシスが目を反らした。前髪を掻きむしるように額に手を当てる。
「くそっ」
汚い言葉だったが、今のアレクシスには素直な心情を表す言葉を選んでいる余裕はない。
(俺は一体、どうしてしまったんだ。こいつにくっつくバートを見ていたら、我慢ならなくてつい――)
自分でも滅茶苦茶だと思う。取り返しのつかないことを言ってしまったが、先程の二人の姿を思い返すと、途端に引っ込めたいとは思わなくなる。これ以上、何を言うかわからない己の口が不安で、アレクシスはそこから立ち去ることしかできなかった。
横を通り過ぎて去っていくアレクシスを振り返り、クリスティーナは悲しみにくれた目で、その姿を追うことしかできなかった。




