中編
「おい!あのガキ何処に行きやがった!探せ!」
遠くから聞こえる怒声にビクつく足を叱咤して、我武者羅に走る。
何度捕まえられようが、その度にどれだけ殴られようが、私は何度だって逃げてやる。あんな汚い大人たちに黙って従ってやるわけないだろ。
そう心の中で毒づくも、足も手も恐怖で震えている。そんな自分が心底情けなくて泣きたい。
でも、私はあの時に決めた。もう、二度と泣かないと。それは、アイツらに屈した証拠だから。
あの日、私は村の為に神への生贄となったはずだった。しかし、それは全くの嘘で、実際にはエド爺の魂胆によって奴隷商に売り払われた。それからは、私は見目が良いからと貴族の下働きとして買われて、奴隷としてこき下ろされる日々だ。
何度も何度も逃げ出した。その度に捕まえられて、次の貴族に買われてを繰り返している。大人しく従ってやるのも癪なので、ヤツらに気付かれないようにヤツらの弱点や人に知られたくない黒歴史なんかも調べている。
いつかコレを使って、ヤツらのプライドを粉々にへし折ってやることを夢見て。
「くそ、何処に行ったんだ!おいお前ら、もっとよく探せ!」
さっきよりも声が近い所から聞こえて焦る。
逃げなければ。今度こそアイツらから逃げなければ。
近づいくるアイツらから逃げる為、私は咄嗟に近くの建物の中に潜り込み、物陰に身を潜める。
荒い息を押し殺して、体を小さくして、外から聞こえる声が遠ざかるのを待った。
「はあ…もう大丈夫だよね?」
つめていた息を少し吐き出して、そろそろと物陰から姿をだす。
とりあえずもう少しここにいようかと思って、辺りを見渡して気づいた。
簡素な造りの椅子が幾つか並び、窓には美しいスタンドグラス。
そして、私がつい先程まで身を隠していたそれは台座で、少し上を見上げるとそこには優しい笑みを浮かべた男とも女とも分からない像が鎮座している。
見覚えのある光景。
当たり前だ。小さい頃は何度も訪れていたのだから。
そこは、教会だった。
「は…私の人生をおかしくしたお前に助けられるとか、なんて皮肉…」
本当に。コレに助けられるぐらいなら、アイツらに捕まった方がマシだった。
その清廉潔白な微笑みに、猛烈な吐き気を催される。
コイツのせいで!
コイツのせいで!
コイツのせいで!
「お前なんか、大っ嫌いだっっっ‼︎」
泣かないと決めていたのに、あの日に誓った筈なのに、次から次から涙が溢れて止まらない。
この世界は汚いことばっかりだ。
あの村も、貴族どもも、この美しく無機質な笑みを浮かべた神と呼ばれる何かも、皆、皆、汚くて気持ち悪い。
綺麗だと信じている子供を羨ましく思う時もあるけど、でももう二度とあの時に戻りたいとは思わない。
全てはまやかしだと知ってしまったから。
「こんな世界、滅びてしまえ!」
「どうか、そんなこと言わないで。」
突然聞こえてきた声に驚いて振り向く。
その人は、ぼさぼさの髪に粗末な服をきた私とはちがって、真っ白で綺麗な身なりをしたどこか浮世離れした綺麗な女の人。
まるで、この汚い世界の僅かばかりの綺麗なものをありったけ集めてきたかのような、本当に優しくて暖かい笑みをその顔にのせていた。
「どうか、まだこの世界を見捨てないで。」
それが、私と聖女様の初めての出会いだった。
「聖女様、もう辞めてください。これ以上やったら聖女様が…」
「ナジカ、私はこの世界を愛しているの。だから…」
すっかりやつれた姿をしたその人に、私は胸が張り裂けるような想いだった。
私を救ってくれた人。
私にもう一度人を信じることを教えてくれた人。
私にこの世界は汚いことばかりではないと教えてくれた人。
私に温もりを与えてくれた人。
私を愛してくれた人。
大切な大切な、私にとって何より大切な人。
ぼろぼろの奴隷だった私にたくさんの愛と温もりと優しさをくれた、私にとって本当の母のような存在の大切な人なのだ。
神が本当にいるのなら、お願いだからこの人を連れていかないで。
聖女というのは、代々特別な力を持っている人がなるという。この方もその一人。そして、この方は未来を予知する力を持った聖女だ。
しかし、奇跡の力を使うには代償が必要になる。寿命だ。神の力を使うのだから、人間はそれに見合うだけの代償を払わなければいけないらしい。
どうして。
代々の聖女たちはなりたくてなった訳ではない。彼女たちは途中までは普通に暮らしていたのだ。それがいきなり神の力を与えられて、文字通り身を削って世界の為に尽くす。
どうして。神はそんな残酷なことができる。
この方が聖女として、どれほど世界の為に尽くしているか。側で彼女を見てきた私が、力を使う度にやつれていくこの方をどんな想いで見てきたか。
もう辞めて欲しいと何度も言った。
聖女様がこの世界を心から愛していることを知っていながら、それでも言わずにはいられなかった。
私にとっては世界よりも聖女様の方が何倍も大切なのだ。天秤にかけるまでもない。
生きていてくれさえすれば、それでいい。
お願いだから、私の大切な人をつれていかないで。
「ナジカ、最後に私を母と呼んでくれませんか。」
「最後なんて言わないでくださいっ!まだっ、まだダメです!聖女様!」
「お願いです…私はあなたを本当の娘のように思っていました。それは私だけですか?」
「そんなこと…私だって、お…お母さんのようだと、本当の母のように思っていました。」
「ふふっ、嬉しいですね。聖女になってから、もう我が子の顔を見ることは出来ないと諦めていました…。」
穏やかな表情をした聖女様は、もうベッドから立ち上がることも出来ない体になってしまっている。
遠くを見るようなその表情の先には、かつてこの方が愛した人がいるのかもしれない。
「…あの人と話していたんです。いつか子供が出来たら名前は何にしようかと…」
私が握るその手は骨が浮き立ち、握り返す力もないほど弱っている。
その手を優しく包みこみ、私は涙声で相槌をうつ。
「…楽しい時間でした。未来を憂いて苦悩することもなく、ただあの人と笑い合っているだけの幸せな時間だったんです。
…あの人は気が早い方だったから、まだ妊娠もしていないのに、きっと生まれてくるのは女の子だと自信満々に言うのよ。ふふ…」
心から幸せそうな顔で聖女様は笑う。
「…でも、私は聖女になって、あの人とは一緒になれなかった。いつか、あの人との間に生まれてきた可愛い我が子をこの胸に抱くのが私の夢だった。」
「…きっと、きっと、叶いますから。まだ、諦めないでください…」
私の気休めにもならない言葉に、聖女様は緩やかに微笑んで首をふる。
「私はもう、これまでです……でもね、ナジカ。全く叶わなかった訳でもないのよ。だって、あなたに出会えた。あなたはもう、私の本当の娘だから。」
涙が止まらない。そんなことを言われたら、私はどうすればいいのだろう。
もう私にとって、あなたはこの世界の全てなのに。
「…なんて言うんですか。その子に、なんて名前をつけるつもりだったんですか。」
母は優しく微笑み、涙を一筋流して言った。
「ミラ……ミラビフローラという花からとったの。」