前編
「ナジカ、早く支度なさい。今日は大切な儀式の日でしょう。」
母の急かすような声に、ナジカと呼ばれた少女がはーいと眠た気な声で応えた。
少女が住むその村は、人の溢れる賑やかな都会とは遠く離れた何処かにあった。そこは四方八方を山に囲まれた、良く言えば自然豊か、悪く言えば閉鎖的で息苦しい田舎の村。
そして、その村には代々受け継がれてきた儀式がある。それは、一年に一度森の恵みとそれをお与えくださった神様に感謝を伝える儀式だ。
「神よ、我々の祖であり万物を創造した、偉大なる父よ。
今年もその溢れんばかりの慈悲で、我々を護り、慈しみ、豊かな自然で育ててくれたことに感謝致します。」
神に感謝を捧げる定型分を、村の唯一の神官であるエド爺が高らかに告げる。そして、偉大なる神を模した像を前に、村人が一斉に膝をつき天を仰ぐ。
静粛な儀式であるが、子供たちにしてみれば面倒なものでしかなかった。こうして祈っている間も、子供たちの中で真面目に感謝を捧げているのなんか、信仰深いエド爺の孫くらいのものだ。
勿論、ナジカもこの後のお祭りで何を食べようかということに思いを馳せていた。
「ナジカ、見てみろよ。コレ、カエルの丸焼きだって。」
そう言って幼馴染みのフーガが差し出してきたのは、カエルの丸焼きにタレをつけたものだった。勿論、周りの女の子たちはそれを見てドン引きしている。
「うわぁ〜!何これすごい!」
「だろ!ヨシさんが作ったんだぜ!ぜってー上手いから食ってみろよ。」
ナジカは周りの女の子たちとは違って、見た目のアレな昆虫なんか全然へっちゃらだった。その上、無駄に度胸があるので、目新しいことや面白そうなものには率先して飛びつく。
「あ!そうだ…どうせならコレ、エド爺に見せにいこうよ。」
「お!いいなソレ!エド爺、絶対飛び上がって腰抜かすぞ。」
ナジカとフーガは顔を寄せ合わせて、子供らしく無邪気で邪悪な顔で笑い合う。
この二人は村一番の悪ガキコンビだった。
「ーーから、ーーーこのままでは!ーー」
ナジカとフーガはエド爺を探して屋台の並ぶ通りから離れた所に来ていた。そこでは何人かの大人たちが話し合いをしている。いや、話し合いというには少し声が大きい。
「何、話してるんだろうね。」
「…ちょっと、盗み聞きするか?」
悪ガキ二人はヒソヒソと話し合い、まるで面白いものを見つけたとでも言わんばかりの顔でそろそろと近づく。
「ーーもう何年もまともに食料を調達出来ていない!動物も痩せ細ったものばかりだし、採集できる果物や木の実も直ぐに腐って使い物にならん!その上、野菜も良いものが全く育たない!
村長、このままでは後数年もたたないうちに村人は餓死してしまいます。どうすればいいんですか!」
「…確かにここ数年、食べられるものが減っていて、最近では虫や昆虫にまで手を出さないと食いつげないほどになっている。このままでは私たちはこの村で生きていけない。
神官様、どうにか出来ないものですか。」
「落ち着きなさい。神はいつだって我々を見守っている。」
「じゃあ何故!何故、神は何もしてくれない!私たちは毎年欠かさず感謝を捧げているんだ。なのに、どうして一向に良くならないんだ!むしろ、年々悪くなっている。」
「子供たちを見てみろ!あの子たちは何も気づいていないが、食事の量を減らされて満足に食えない中、文句一つ言わない。腕も足も細くなって、ガリガリじゃないか!あれを見て神官様も神も何も思わないのか!」
それは、村の大人たちの間ではここ数年何度も議論されてきたことだった。
大人たちの間では暗黙の了解であったが、子供たちはそんな事情なんて知らない。幾人かの聡い子の中には薄々気づいている者もいたが、ナジカとフーガの悪ガキコンビにとっては初耳だ。
「うそ、この村そんなにヤバいの?」
「…分かんねえ。でも、確かに前よりご飯減ってる気がする。」
「「…」」
顔を見合わせて黙りこくる。
虫や昆虫の類が苦手なエド爺を驚かせてやろうと軽い気持ちで来たが、これは聞いちゃいけないやつだったかもしれないと今更思う。
どうしようか戻ろうかとヒソヒソ話し合う二人を横目に、大人たちの話し合いは段々とヒートアップしていく。
そして、途中から黙り静かに話を聞いていたエド爺が口を開いた。
「神は大いなる慈悲で溢れたお方である。ならばこそ、これもまた意味のあること、我々を思ってのこと。」
「その意味とは一体…」
「神はきっと我々を試しているのだ。我々の神への愛とその信仰心を。」
「では、それを証明すればいいのですね!一体どうすればいいのですか、神官様。」
希望を見いだし、期待に満ちた目で一人の男が問いかける。
それに対してエド爺は、まるで清廉潔白を絵に描いたような優しい微笑みで告げた。
「我々の神への愛と信仰心、そして感謝を証明する為に捧げるのです。
生贄を。」
「ナジカ、いい、あなたはこの村の為に神の御元に帰るの。とても誉れ高いことなのよ。」
母の優しい声が語りかける。その全てが右から左へと流れていく。
何を言ってるの?何故、村を救う為に生贄を捧げなければいけないの?その生贄がなんで私なの?どうして、お母さんはこれから私が死ぬのに笑ってるの?
どうして?
「ナジカちゃん、ありがとう。君のおかげで村の皆が助かるんだ。とても素晴らしいことだよ。」
大人たちが次々に私にありがとうと笑いかける。
皆、今の私の顔がちゃんと見えていないんだろうか。
きっと見えていて目を逸らしているんだ。
だって、何か言って自分が生贄になったりしたら嫌だしね。
大した労働力にもならないガキの私が一人居なくなろうが、この村にとってはどうってことない。むしろ、食糧難の今、一人減れば少し楽になる。
これは、そういうヤツだ。
この笑顔は、そういう笑顔なんだ。
大人たちは私の周りに集まっているが、子供たちは少し離れた所にいる。皆、この小さな村で一緒に過ごした大切な幼馴染だ。
だけど、誰一人として私の所には来なかった。こちらをチラチラと気にしているようだったけど、駆け寄って最後のお別れを言いに来てくれる様子はない。
フーガも皆と一緒にいる。私とは目さえ合わせてくれない。ずっと下を向いたまま。
一番の親友だと思っていたのは私だけだったのかもしれない。
鼻の奥がツンとして、何かが目からこぼれ落ちそうになるのを必死に堪えて、私は大人たちの前でヘラリと笑ってやった。
少しでも彼らが罪悪感で苦しむようにと。
それは、私の最後の悪足掻きだった。
「この道をずっと真っ直ぐ行った先に崖がある。そこから身を投げたら、神の御元に行けます。では、お行きなさい。」
聖人のような笑みをたたえたエド爺。
その笑顔が今までとは違ってとても恐ろしく異質なものに見えたから、私は小さな声で分かりましたと返事をするしかなかった。
大人たちの声を背に、私は森の中を歩き出す。
この空間に少しでも長く居たくなかった。
少しずつ村から離れていくにつれて、私はあの村が何処か可笑しかったことに今更気づき始めていた。
「ああ、いたいた。やっと来たぜ。たっく、いつまで待たせんだよ。ちんたらしてんじゃねーよ、ガキが。」
森の中を歩き始めて三十分ほど経った頃、道の途中でいかにもガラの悪そうな男二人が道を塞ぐように立っていた。
「まあ、仕方ないだろう。ガキの足じゃこんなもんだ。それより、なかなか上者じゃないか。正直、期待してなかったんだがな。」
「ガハハハ、あの爺さんも良い仕事するぜ。神官の服着てる癖によ。」
目の前の男たちはまるで私が来るのを待っていたかのように話す。
私はまだ子供だ。でも、子供だけどバカじゃない。この二人の会話を聞いて何も分からないほどバカじゃない。
「ああ、かわいそうだな、ガキ。お前は村の為に生贄になるんだよ、俺たちのな。」
その日、私は私の信じていた世界は全てまやかしだったのだと知った。