プロローグ
寝台に横たわるトーイの小さな体を見て、リアの心に沸き上がったのは怒りだった。
諦めろって、何だ。
まだ、トーイはたったの六歳だ。
今朝まで元気に笑って、「リア」って抱き着いてきた可愛い弟分だ。
それを突然こんな、わけのわからない理由で、諦めろ、なんて言われて。
「リア!」
寝台に走り寄ろうとしたリアの腕を、青ざめた顔のディアナが掴んだ。
「近づいたら駄目だって、先生が」
「呪いは病気みたいに、移ったりしないんだろ?」
声がふるえた。
以前、医師でもあるロックワイヤーが言っていた。
呪いは魔術師の領分で、薬や治療ではどうにもならないのだと。
呪った者と呪われた者との、複雑に絡まりあった術式を解きほぐさない限り、どうにもならないものなのだと。
あの時はただ、リアにとっては遠い国の、怖い物語を聞くようなものだったのに。
「でも、何が起こるかわからないじゃない!」
「トーイを運んできたのは、どう見ても魔術師じゃない、普通の憲兵だった。何か起こるなら、あの男にだって起こってる。それに、俺には太陽の加護があるから、もしかしたら、何か……」
「加護が効くなんて、どうして言えるの?! トーイにだって加護はあったはずよ。まだ神託は受けてなかったけど……。誰かの加護は生まれた時からあったはず。でも、呪いには、役に立たなかったのよ」
菫色の瞳から涙が落ちる。
十歳のリアよりディアナは四つも年上だ。
しっかり者の彼女がこんなふうに泣くのを、初めて見た。
「くやしい……。何で……。呪いって、何なのよ。誰が、なんでこんな」
震えるディアナの手を、リアはそっと握って外した。
「呪いが何かなんて、俺にもわからないよ。だけど」
「リア……?」
「こんな、何もしないのは、いやだ」
近づいて覗き込んだトーイの顔には、まるで血の気がなかった。
細く弱い息だけが、命がまだ消えていないことを示している。
いつもの愛らしい顔が、別人のように強張って、頬には泣いたらしい後が残っていた。
どんな目にあったんだろう。
連れ去られた先で、どんなひどいことをされたんだろう。
トーイの服に、強く握りしめたようなしわが付いているのに気づいて、リアは唇をかんだ。
この子が何をした。
身寄りのない子どもなら、何をされてもいいのか。
ろくな説明もしてもらえず、ただ、運が悪かったというだけで納得しろと。
ふざけるな。
このままトーイが死ぬなんて、絶対に許せない。
頬に触れて、やわらかな黒髪をなでた。
抱き起して腕の中に閉じ込めると、くたりとして、まるで人形のように体温が感じられなかった。鼓動すら、はっきりしない。
でも、生きている。
不安げに見つめるディアナに「俺は大丈夫」と頷き、リアは抱きしめる腕に力をこめて、目を閉じた。
リアの持つ「太陽の加護」は、神々の加護の中でも別格の扱いなのだそうだ。
怪我の治りが早い。病気にかからない。人一倍、体力がある。
今までのリアの実感としてはその程度のものだった。
もし、それ以上の力がこの加護にあるというのなら、今だけでいい。トーイに力を分けてほしい。
トーイを、助けたい。
強く願った途端、冷たい何かがリアの中に流れ込んできた。
疑問に思う間もなく、それはリアの体の中心に向かっていき、おぞましく膨れた上がったかと思うと、狂暴に心臓に襲い掛かった。
「う……ああぁっ!」
「リア?!」
胸が痛い。苦しい。息ができない。
ディアナが肩をつかんできたのがわかったが、突然の激痛に、腕の中のトーイごと寝台に倒れこむことしかできなかった。
痛い痛い痛い痛い。でも、この痛みには覚えがある。
なぜ、とリアの薄れかかった意識が問いかける。病気も怪我もしたことはないはずなのに、なぜ。
こんなふうに、胸の痛みに耐えたことが、確かに、前にもあった。
ディアナが何かを叫んでいる。
「リア! しっかりしろ! 何があった?!」
誰かの大きな手が、リアの頬を挟んだ。ディアナじゃない。
目を開けると、見知った男の焦った顔が見えた。
「……ロッ……ワ……」
「ああ! 俺だ! わかるな?!」
いつもは白い服を着ている男が、なぜか鮮やかな赤い服を着ていた。
いや、違う。
これは、窓から差し込んでくる夕日の色だ。
太陽が沈もうとしている。
それを理解してすぐ、リアは痛みで気を失った。
お読みいただいて、光栄です。