07
花の神殿から、シエルの王都ハイドランジアへ戻ったふたりを出迎えたのは、見知らぬ長身の青年たちだった。ひとりは自分をウィスタリアと名乗り、その片割れはヴィルヘルムと名乗った。そして、自分たちが王宮直属の黒騎士団に所属していることを付け加える。
彼らの話によると、ニンファの方角で真っ白な光が立ち上ったという。それは、マリーツァが花の女神に祝福を受けた時間とぴったり重なっており、ハイドランジアで暮らす大多数の人々がそれを見たらしい。それに、とウィスタリアは言う。マリーツァの左手に視線が向けた。そこにあるのは巫女の証たる刻印。
「私共に着いてきてください。国王陛下がマリーツァ様を、王宮でお待ちです」
ウィスタリアが恭しく頭を下げた。彼の隣で、ヴィルヘルムもそれに倣う。マリーツァは彼に「はい」と小さく答えるだけで精一杯だ。自分がセフィーラを救う存在だとか、女神に選ばれた巫女であるとか、自分に降り掛かったこのすべてが現実であると改めて感じると、足元が抜け落ちそうになる。古の時代を生き、そして破滅の巫女を封じ、セフィーラを救った聖女クラウディア。彼女はこんな風に戸惑わなかったのだろうか。
「私はここに残るよ」
「ミカエラ……?」
ミカエラも、当たり前のように一緒に来ると思いこんでいた。マリーツァの声が上擦る。確かに、花の神殿で女神に選ばれたのはマリーツァただひとりだ。ミカエラはどこか淋しげな笑みを浮かべている。
「いえ、出来ればあなたも来て頂けませんか」
ふたりを見据え、ヴィルヘルムが落ち着いた声で言う。彼の隣でウィスタリアも「お願いします」と続けた。ミカエラは驚いたようだった。もともと大きい瞳が、更に大きくなる。
「一緒に行こう?」
マリーツァが言った。その時、風が吹いた。春の穏やかで優しい風。ミカエラは金色の髪を揺らしながら、こくんと頷く。マリーツァは思った。自分は花の巫女として力を授けられた。けれど、ひとりでは何も出来ない。幼い頃からずっとそばに居てくれたミカエラが、これからもすぐ隣にいてくれれば、そこから一歩前に踏み出すことが出来る。ミカエラの笑みから、寂しい色が氷のように溶けていく。
「それでは、行きましょうか」
歩みだすウィスタリアに、マリーツァとミカエラは続いた。抜けるように青い空に包まれた、アイレ大陸最大の街ハイドランジア。この景色を守りたい。大切な故郷を。大切な人たちが生きるこの世界を。与えられた力をどう振るうのかと問われたら、マリーツァはそう答えようと決めた。
王城を目指しながら歩くマリーツァは、周りの人たちの視線が気になって仕方がなかった。黒騎士が歩いているだけで若い女性の目は集中するものだが、マリーツァに集まる視線はそれとは全く色が違う。手袋を用意するべきなのかもしれない。マリーツァは左手の甲に刻まれたそれをちらりと見、そんなことを思った。
シエルの王城。それは、ハイドランジアのほぼ中央に聳え立つ。白い城壁と、天高く伸びる尖塔。美しくも力強い姿をしたこの城は、シエル王国の発展の象徴でもある。
全土がシエル王国領である浮遊大陸「アイレ」の東方に浮かぶのが、第二の浮遊大陸「ビエント」だ。ビエントの全土がジュビア王国に属している。
古の時代、シエル王国とジュビア王国は対立関係にあったという。だが、破滅の巫女が選ばれ、セフィーラに危機が迫ると、シエルの女王とジュビア王は共に支え合って戦うことを選択したのである。これは、アイレやビエントで暮らす者であれば、誰もが習う古代の歴史だ。と、いっても事実だと言う者もいれば、脚色されたものだと主張する者もいる。
しばらく歩き、緩やかな長い坂を上がっていく。花の盛りのハイドランジアは、様々な色彩に溢れている。城を囲む形で植えられた桜の木。春風に乗って花弁が雨のように舞う。坂を上がりきれば、城の全貌が見えてくる。ウィスタリアとヴィルヘルムが門をくぐり、マリーツァとミカエラも続いた。マリーツァもミカエラも、ハイドランジアにずっと暮らしているけれど、城に来るなんて初めてだ。王城兵が数人見える。そのすべての眼差しがマリーツァに集中しており、本人は嫌な汗が出るのを感じた。
だが、視線が集まるのは無理もないことだ。女神からの祝福を受けた巫女の出現。それはつまり、セフィーラにふたたび危機が迫りつつあることを指し示す。それと同時に、「聖女」という特別な存在の目覚めが近いということ。マリーツァの脳裏に過る、聖女クラウディアの姿。そして、女神フルールの言葉。御伽噺の世界に紛れ込んでしまったかのような、そんな感覚が襲い来る。自分や、聖女だけではない。災いをもたらす存在だって、目覚めてしまうかもしれないのだ。
マリーツァは無意識に耳元に手をやった。そこにはミカエラがくれた、彼女とお揃いの耳飾り。青い魔石はじんわりと熱を持っていた。
城に入り、ウィスタリアとヴィルヘルムの背中を追いかけるように進む。場内は荘厳としていた。広い部屋に通され、そこに置かれたダークレッドのソファに座るように促される。ヴィルヘルムが一度姿を消し、ウィスタリアはマリーツァとミカエラのことを見て、静かな口調でこう問いかけた。
「お二人はご友人なのですか」
「あ、はい。私と彼女――ミカエラは幼馴染です。幼い頃から、ずっと一緒です」
親友を見て、マリーツァは微笑む。
「そうなのですか。私とヴィルも……ヴィルヘルムも、幼馴染みたいなものです。小さい頃から同じ夢を見て、今はこうして同じように騎士になったのです。まあ、彼のほうが私よりふたつ年上なのですがね。ヴィルは誰にでも優しくて、実力者でもあります。彼とこうして友になれたことは、私の自慢でもありますよ」
ウィスタリアが静かに言った。目を細めている彼を見て、マリーツァもミカエラも知る。ふたりがとても良い友人関係を築いていることを。
マリーツァはふと、窓の向こうに目をやった。大きな窓の先に、遠くを飛ぶ飛行船が見えた。浮遊大陸「ビエント」にある東の大国、ジュビアに向かう船なのだろうか。アイレとビエント。そして、北方のペルーシュ島や、南方にあるメーヴェ島などといった小さな浮遊島。そのひとつひとつに人々の営みがあるのだ。そのすべてを引っ括めてセフィーラという世界が構成されている。マリーツァが改めてそんなことを考えたのは、やはり自分が巫女に選ばれたからだった。アイレだけではない。ジュビアにも、そして小さな島々にも、巫女や女神の存在が語り継がれてきた。
「ね、マリーツァ」
ミカエラが声をかけた。それによってぐるぐると巡らされていた思考の渦が解けていく。
「不安だろうけど、私はいつでもマリーツァのそばにいるよ」
「ミカエラ……」
友は彼女の手をそっと自分の手で包み込んだ。右手を取ったのは、刻印が痛むのではと配慮してくれたからなのだろう。あたたかなミカエラのぬくもり。マリーツァは頷く。ありがとう、その気持ちを小さな声で綴って。
ヴィルヘルムが戻ってきたのは、その直後のことだった。