06
花の神殿の中は、驚くほどにひんやりとした空気で満たされていた。ずっと閉ざされていたはずなのに、黴臭さや埃っぽさは無い。祭壇には、白い石で作られた薔薇が置かれている。そして、その薔薇は煌々と光っていた。見る者に何かを訴えかけているかのように。
「マリーツァ?」
無意識に祭壇へ歩み寄る友人に、ミカエラが声をかけた。マリーツァはそのまま石の薔薇へと手を伸ばす。いつもの眼差しはそこに無く、縋るような、祈るような、一言では言い表すことの出来ない顔でマリーツァは光る石に触れた。
その途端、何かが弾けるような音がした。石の薔薇がなお光を強く放つ。月光のように冷たく鋭い光ではない。太陽のように激しい光でもない。マリーツァは目を閉じた。光の中に身を委ねるような彼女の姿に、ミカエラは目を見張る。
「――人の子よ」
マリーツァの薄い桃色の唇がゆっくりと動く。綴られた声は確かにマリーツァのものだが、彼女では無い誰かの意思で形作られたのがミカエラには分かった。不安を消せないままのミカエラは、ただ彼女に目を向けたまま黙している。今、自分の目の前で起きているこれはきっと、と答えが直ぐ側にあるのに、それを掴めずにいる。
「私はフルール。アナイスに次ぐ、新しき巫女に花の祝福を授けん」
張り詰めた空気を切り裂く声。
「新たなる花の巫女よ。世界に光という希望をもたらす、新しき光の巫女と共に、長き道を進めよ。悪しき者の企てを食い止める為に――セフィーラの未来は、新しき時代の巫女たちに委ねられる」
マリーツァの左手の甲に光が集中した。直後、マリーツァが大きな声で叫んだ。焼けるような痛みに悶えている。ミカエラは何度も彼女の名を大きな声で呼ぶが、マリーツァは悲鳴にも近い声を張り上げるだけ。マリーツァとは長い付き合いだが、こんな彼女を見るのは初めてだった。
それから十秒ほど経過して、ようやく叫び声が収まる。膝から崩れ落ちるマリーツァを、ミカエラが間一髪で抱きとめた。さらりと落ちる薄紅色の髪。白い肌には汗が滲んでいる。マリーツァは荒い息を何度も吐き出して、ミカエラの手を借りて立ち上がった。
彼女の左手の甲には花の刻印。そのことに気付いたマリーツァの脳裏に、幾つもの言葉が浮かび上がってきた。この世界――神々に愛されたセフィーラに生きている者であれば、誰もが知る伝承。古よりずっと語り継がれてきた、女神と巫女の言い伝え。
神々は時が来ると人の子を選び、祝福を授ける。
選ばれた者たちの手の甲には聖なる印が刻まれ、同時に強大なる力を手にする。
人々は選ばれし彼女たちを「巫女」と呼ぶ。
その力は世界の為であったり、何かの願いの為であったり――時には破壊の為に振るわれる――。
「大丈夫? マリーツァ……」
ミカエラがマリーツァの背を何度も撫でながら尋ねる。マリーツァの息は荒いままで、顔も真っ青だ。青い瞳で甲に刻まれた印を見ている。痛みはもう無いが、まだじんわりと熱を持っている。
「本当に、花の女神……フルール様が、私に……?」
マリーツァが辿々しい声で言う。ここは花の女神フルールを祀る神殿で。きっとここで古の花の巫女も祝福を受けて。そして長い年月を経て、マリーツァが「花の巫女」として選ばれたというのだ。マリーツァは周りを見回す。あれほどまでに強く輝いていたはずの石の薔薇は、光を失った姿で咲いている。まるで萎れてしまったかのよう。
目まぐるしく動く展開に、マリーツァはそれ以上言葉を出す事が出来なかった。
「……ね、ねえ、マリーツァ。とりあえず、ここを出よう?」
ミカエラの顔には、不安という文字が大きく書かれている。なんとかマリーツァも頷いて、疼く刻印を見やり、それからふたりで神殿を出る。扉を押し開けたマリーツァは、一度だけ振り返った。祭壇の石は、ただの変哲も無い石のように転がっているだけ。聖女クラウディアの言葉がよみがえる。新しい巫女。希望。それらは鎖のように繋がって、冷たい音を立てていた。
「おい、お前たち」
神殿の外へ出たふたりに駆け寄ってきたのは、先程聖蕾について教えてくれた、オリーブとライムだった。ふたりとも真っ青な顔をしており、彼らの瞳に映るマリーツァとミカエラも同じ色の顔。
「すごい音がしたから、びっくりしたわ。それに……」
オリーブが一度言葉を切った。彼女の視線は、そしてライムの視線は、マリーツァの左手に向けられている。花の刻印。女神が巫女に刻む、力の証。それが物語るのは。
「ちょっと良く見せてみろ」
「きゃっ!」
ライムがやや乱暴にマリーツァの手を取った。まじまじと彼はそれを見た。まだじんじんとした痛みが残っているそれを見て、ライムが大きな息を吐き出す。
「これがどういうことなのか、分かるな」
「……はい」
「お前はもう、普通の人間じゃない」
「……」
「花の女神が選んだ、救世の巫女だ。さっきオリーブが言ったことを覚えているか?」
マリーツァが問いかけに頷く。花の神殿の入り口にある聖蕾。それが開く時、セフィーラに希望の花が咲く。オリーブはそう言っていた。このニンファで暮らす者ならば誰もが知っているという。聖蕾が開き、その話を聞いた時点で、マリーツァはあの夢がただの夢で無いことを悟っていた。その上で、自分は神殿に入り――女神の祝福を受けた。マリーツァは何故か冷静にその答えを導き出すことが出来た。
「あなたが選ばれたということは、また別の巫女も選ばれたか……近々、選ばれるということ。そして、それには――希望とは正反対の存在も現れるだろう、ということ」
静かにオリーブが言う。マリーツァとミカエラが顔を見合わせる。オリーブは、そしてライムは、どういった人物なのだろう。見た目は幼いのに、その口振りはやけに大人びているし、まるで物語に出てくる語り部のよう。
だが、それを追求する余裕は無いようで、マリーツァは「あっ」と小さな声を漏らした。聖女クラウディアは確かに言った。彼女の封印がとける日が近付いている、と。「彼女」というのが指し示すのは、オリーブのいう「正反対の存在」なのではないか。もし、それら全てが揃って一枚の絵になるのなら――マリーツァは目眩がした。自分はもう、花の巫女なのだ。花の女神フルールから祝福を受けたのだ、ライムが言ったように。
「なあ、お前、名前は?」
「マリーツァ……」
ライムがじっとマリーツァを見る。
「マリーツァ。一度ハイドランジアへ戻って、王宮に向かえ」
少年は言う。巫女に選ばれた者には、使命があると。このセフィーラという世界の為に、女神より与えられた力を振るわねばならない、と。女神が巫女を選ぶのは、世界に危機が迫っている時だ、とオリーブも付け加える。
「古の時代に、クラウディア様が仲間と共にセフィーラを救ったように、あなたにも女神から力を与えられた仲間がいるはずよ。光の女神様や、水の女神様も、花の女神フルール様がそうしたように、この時代の巫女を選ぶと思うの」
「……」
マリーツァは一度、ミカエラを見た。彼女も複雑な顔で、マリーツァのことを見ていた。世界を揺るがすことに巻き込まれ、言い表せない感情を抱いているのかもしれない。それ以上に、マリーツァはこの展開に驚きを隠せない訳だが。
「ねえ、あなた」
「わ、私?」
突然、オリーブに声をかけられたミカエラが小首を傾げる。
「マリーツァさんは巫女の力を与えられたけれど、ひとりでは戦えないでしょう。どうか支えになってあげて。きっとそうすればあなたの道も開けると思うから」
「……はい、勿論です。私は無力かもしれないけれど、マリーツァの為なら、頑張れると思います」
ミカエラが微笑んだ。自分とマリーツァは幼い頃からの付き合いだ。互いに、自分たちの関係を「親友」と言い表してきた。どんなことがあっても、その関係が揺らぐことはない。そんな確信があった。見つめ合ったマリーツァとミカエラ。ふたりを見て、オリーブとライムも大きく頷くのだった。