05
シエル王都ハイドランジアの隣にある、美しい街ニンファ。清らかな水を湛えた湖が中心部にあって、それを取り囲むように人々は暮らしている。
花の神殿はこの街の東方にあった。その神殿の周りにはたくさんの薔薇が咲き、神殿自体も細かい装飾が施された、大変美しい建造物として有名だ。ここに祀られているのが花の女神フルールである。
約束を交わした次の日。マリーツァとミカエラは、久し振りにニンファの土を踏んだ。真っ青な空は、どこまでも続いているように果てしない。晴天だ。
マリーツァの手には地図がある。ハイドランジアの駅にある書店で、予め買っておいたのだ。ニンファに来るのが初めてではないとはいえ、道に迷ってしまったら大変だ。マリーツァもミカエラも、どちらかと言えば慎重派である。ええと、とマリーツァが地図を広げて、ミカエラもそれを覗き込んだ。
「神殿まではちょっとだけ距離はあるけど、歩けない距離ではなさそうだね」
マリーツァの細い人差し指が示すそこを、ミカエラは見て頷いた。確かに、普通に歩いて十五分くらいはかかりそうだ。道が分かり辛いということも無いだろうし、花の神殿に近付けばそれを指し示す看板くらいあるかもしれない。ふたりは歩き出した。マリーツァが見た、あの夢の答えが見つかることを望んで。
「でも、夢なのにあんなに覚えているなんて不思議だね」
道すがら、ミカエラが呟くように言った。大抵の夢は儚い。たとえ見たものが恐ろしい夢だったとしても、その恐怖ばかりが目立って、核心部分がまるで氷のように溶けてしまうことの方が多い。楽しい夢だってそうだ、楽しかったという感情だけ残して霧散していく。
だが、マリーツァが見たものは違う。時間が経過した今だって、あの内容を鮮明に覚えている。聖女クラウディアの美しくも悲しい歌声も、彼女の悲痛な表情と、訴えかける声も、全部。
きっとただの夢では無い。そう感づいている。マリーツァ本人も、話を聞いたミカエラも。少しずつ花の神殿が近付いてくる。もうその姿は見えている。青々とした葉を幾つもつけた木々の奥に、それは静かに建っていた。たくさんの花の姿が刻み込まれた神殿が。
息を呑むマリーツァと、辺りを見回すミカエラ。静寂が世界を支配しているかと思えば、突然強い風が服と同時に叫ぶような声が轟いた。
「何者だ!」
「――!」
神殿のすぐ前に、人影がふたつ。マリーツァは目を疑った。きっとミカエラも同じだろう。そこに立っていたのは、マリーツァたちよりもずっと若い――というより幼いと言ったほうが正しいような、少女と少年だった。
「あ、えっと……私たちは……」
マリーツァが言葉を探している。
「早々に立ち去りなさい。ここは聖なる場所です」
少女の凛とした声が響く。神殿の入り口には、白い蕾を模した大きなオブジェがあり、少女と少年はそれを挟む形で立っている。
「お前たちに何の用があるか知らないが、許可のない人間を入れる訳にはいかない」
そう言い放ったのは少年で、よく見ればふたりは似た顔をしている。きっと姉弟なのだろう。足止めを食らうかもしれないとは思っていたが、こんなに幼い子どもたちが出てくるとは予想していなかった。マリーツァがミカエラのことを見る。ミカエラは何度か首を横に振った。少女も、少年も、話を聞いてくれそうにない。一度出直したほうが良いのかもしれない、目と目でそんな言葉を交わしあった、その時だった。
「え……?」
そんな声を発したのは、誰だったか。蕾のオブジェが光に包まれている。マリーツァも、ミカエラも、それから少年と少女も、驚きに目を大きくさせている。
次第に強くなっていく光。あまりの眩しさに、この場にいる全員が目を瞑った。まさか、と少年が呻くように言う声がしたと思えば、光は突如として消える。恐る恐るマリーツァが瞼を開いた。そこにあるのは先程と変わらない静謐な空気と、花開いたオブジェ。
「な、何が……起きたの……?」
ミカエラが言った。少女が少年と顔を見合わせている。酷く真剣な表情で。マリーツァも何も分からない、といった顔で親友を見た。
「……まさか、でも、そんなことって……ある、のか?」
「ライム。この人たちが来た途端、聖蕾が開いたのよ。これってつまり、そういうことなんじゃないの?」
ライムと呼ばれた少年が頭を抱えた。マリーツァとミカエラは、そんなふたりのやりとりをぽかんと見ていることしか出来ない。
「あの、せいらい、って……このオブジェのこと、ですか?」
しかし、これでは勝手に話が進みかねない。マリーツァがおずおずとふたりに問いかけた。
「えっ、お前たち、そんなことも知らないのか?」
「はい。ええと、私たち、ハイドランジアから来たのです」
「……そう。他の街の人なら、知らなくてもおかしくは無いわね。ええ、このオブジェは聖蕾というの。聖蕾が開くとき、セフィーラに希望の花が咲く。そう言われていて……あ、自己紹介が遅くなってごめんなさい、私はオリーブ。こっちは弟のライムよ」
オリーブが丁寧に頭を下げた。続くようにマリーツァとミカエラも名乗り、全員の瞳が聖蕾へと向けられた。大きく白い花が立派に咲いている。淡く光を放ち続けているそれは、とても美しい。だが、どこか不穏な美しさのようにも思えた。
オリーブが言った「希望」とはどういうことなのか。そう考えた直後、マリーツァは夢の中で聖女クラウディアが告げた言葉を思い起こした。彼女は確かに言っていた。あなたは希望のひとりだ、と。夢の終わりに、クラウディアが告げたのだ、マリーツァは頭がくらくらした。本当にただの夢では無かったのだ、あれは。それを象徴するかのように、たった今、聖蕾は開かれた。
「……分かった。通すよ」
ライムが長い沈黙のあとに言った。その声は先程よりもずっと硬い。小首を傾げたミカエラに、彼は続ける。その為に来たのだろう、と。オリーブも無言で頷く。
「……行こう、マリーツァ」
「え、あ……うん」
マリーツァは誘うミカエラに小さく微笑み返すことが精一杯だった。心に広がっていくのは不安と、名のつけ難い感情。マリーツァは扉を押し開ける。ギイ、と軋みながら開かれていくその様子を、オリーブとライムが複雑な面持ちで見ていた。
「あの子が、希望のひとりなのね。きっと」
「――つまり、その時が近い、ってことか」
「……そうね、希望があるということは、絶望もその裏に存在するということだから」
そんな姉弟のやりとりは、マリーツァの耳に届くことはなかった。