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青い、どこまでも青い空を、その飛行船は飛んでいる。シエル王国の王都ハイドランジアを発って、どれだけの時間が流れただろうか。マリーツァ・アヴニールは窓の向こう側に目を向ける。
この飛行船はハイドランジアのあるアイレ大陸を離れて、東側にあるもうひとつの浮遊大陸――ビエントへと向かっている。ビエント大陸の全土を統治するのは、ジュビア王国の王――グランディネだ。マリーツァも、そして同行する彼女の親友ミカエラ・シックザールもアイレ大陸を離れるのは初めてで、まだ緊張を拭いきれずにいる。
「マリーツァ、ミカエラ。改めて確認しておきましょうか。私たちはまず、ジュビアの王都イリスを目指しています」
ウィスタリアが地図を広げた。現在、船を操縦しているのはヴィルヘルム。シエル王国の騎士であるこのふたりが、交代で操縦桿を握ることになっていた。マリーツァとミカエラの視線が地図へと落ちる。ウィスタリアの長い人差し指が示すのが、現在位置。もう一時間も飛行すれば、ジュビア王都イリスの飛行船ターミナルに到着するだろう――彼は落ち着いた声で言う。
「王都イリスに到着したら、我々はアルビジアという街へ向かいます」
ウィスタリアの指が、北側へと移動する。そこには「アルビジア」という地名とともに、大樹の絵が描かれていた。
「アルビジア……。そういえば、聞いたことがあります」
首を傾げたミカエラの隣で、マリーツァがそういえば、といった様子で口を開いた。マリーツァもミカエラも、シエル王国の外に出るのは今回が初めてだ。それをウィスタリアは知っていたので、少々意外といった様子でマリーツァのことを見た。
「確か、異種族の暮らす街……だったと思います」
「ええ、そうです。マリーツァ、よく知っていますね」
感心、といった様子のウィスタリアにマリーツァは照れくさそうに笑う。
「昔、読んだことがあるんです。少女が仲間と一緒に、世界を巡る小説を。それはフィクションのお話でしたけど、舞台はセフィーラそのものだったので」
「そっか。マリーツァは読書好きだったよね」
ミカエラも小さく笑った。マリーツァは「うん」と答える。彼女は昔から本を読むのが好きだった。特に好んで読んでいたのが、冒険モノの物語。マリーツァは本を読むことで、自分が旅をしているような気分になることが幼い頃から好きだったのだ。まさか、実際に花の女神に選ばれて、巫女となり、本当にセフィーラを巡ることになるとは思っていなかったが。
「アルビジアはルルディ族と呼ばれる種族の街ですよ」
操縦桿を握っているヴィルヘルムが、背を向けたまま言った。どうやら彼も、三人の話をしっかり聞いていたらしい。
「ルルディ……どういった方々なのでしょうか?」
「そうですね、あまり人間との関わりを持ちたがらない種族だと言いますが、長い時を生きてきたルルディ族なら、巫女や女神の伝承を私たち以上に知っているはずです」
ウィスタリアは一度言葉を切って、それからまた考え込むような仕草をしつつ続ける。
「花の巫女であるマリーツァになら、心を開いてくれるかもしれません。自然と共に生きる種とも言われていますからね」
真っ直ぐに、澄んだ藤色の瞳をマリーツァへと向ける。少女は少しだけ戸惑った。確かに自分は花の巫女。花の女神フルールは、自分に力と使命を与えた。その使命というものは、いずれ目覚めるであろう巫女たちと手を取り合って、この世界を――セフィーラを救うこと。しかし、マリーツァはまだ自分が力不足だと分かっている。今だって、ウィスタリアとヴィルヘルムに頼りっきりだ。自分ひとりでは何も出来ない。どこにでもいる普通の少女でしかない。
「ねえ、マリーツァ。マリーツァはひとりじゃない。私もウィスタリアさんも、ヴィルヘルムさんも一緒だから、きっと大丈夫だよ?」
不安の色を纏った親友に、ミカエラは言う。マリーツァは親友の優しいその言葉が嬉しかった。ひとりでは出来ないことも、何人もの力を合わせればきっと乗り越えていける。マリーツァはそうだね、と頷き微笑を浮かべた。それこそ長い冬を超えて、やっと綻んだ花のよう。
「ミカエラの言う通りです、マリーツァ。それに、少しずつ経験を積んでいけば、あなただって今よりずっと強くなれるはずだ」
ウィスタリアが真っ直ぐにマリーツァのことを見つめた。心からの言葉なのだろう、マリーツァは一度首を縦に振る。誰だって、最初は己の無力さに嘆きたくなるものだ。けれど、経験と努力を重ねていけば、きっと強くなれる。強さを求めること。それは大切な存在を守る為。ウィスタリアやヴィルヘルムも、王に認められるほどの実力を持った騎士になるまで、苦労してきたことだろう。そんな彼が言うのだから、とマリーツァは再び頷いた。
「頑張りますね、私」
「ええ、その意気です」
マリーツァが言い、ウィスタリアが笑む。
「だから、見ていてくださいね。ウィスタリアさん」
そんな彼女に彼は改めて「ええ、勿論」と答える。ふたりの様子を見守るミカエラには、急激にマリーツァとウィスタリアの距離が狭まっているように思えた。ウィスタリアとは出会って日が浅いものの、マリーツァとは本当に長い付き合いだ。彼女はよく笑う人物だとは思う。けれど、こんな風に自然に――どこまでも柔らかな笑みを浮かべるのは、心を許した人物にだけだったように思える。マリーツァにとって彼という存在が、大きなものに変わりつつあるのではないか。ミカエラはそんなことを考えてしまう。それが悪い、という訳では無いが、友としては、彼女の存在がやや遠くなっていくようで、一抹の不安を抱いてしまいそうになる。
「ミカエラ?」
急に黙り込んで一体どうしたの。とうのマリーツァにそう問いかけられて、ミカエラはぎくっとした。マリーツァの青い瞳が小さく揺れる。
「ううん、何でもない。ちょっとだけ考え事をしていただけだよ」
「……そう?」
何か相談事があるならすぐに言ってね、と優しく付け足す彼女は、もういつものマリーツァだ。ミカエラはそれ以上、このことを考えないことにした。今はここまででいいのだ、時が来てマリーツァが答えを出したら、自分もそれを受け止めればいいだけのこと。花の巫女になった彼女を支えることが、自分の使命だ。出発する前、オリーブとウィスタリアにも言われたではないか。そして自分も、答えたではないか。マリーツァの為に出来ることを全てやる、と。
ミカエラは窓の向こうに広がる光景を見た。街が見える。たくさんの建物が、天に向かって伸びている。まもなく、王都イリスに到着するようだ。操縦席のヴィルヘルムが高らかにそれを告げる。
「――いよいよ、だね」
マリーツァがぎゅっと手に力を込めて言った。飛行船は高度をみるみる下げていく。ミカエラはまだ見ぬ世界へ、心臓がばくばくと強く鼓動するのを感じた。




