16
力の大部分を失い、神木は今にも枯れ果てようとしている。この森を、アルビジアの街を、そしてルルディ族を途方もないほどに長い年月、見守ってきたこの神木が――ツェツィーリアは心が押し潰されるような苦しみを抱きながら、それを見上げた。生まれてからずっと、アルビジアで生活を送ってきたが、こんなことは初めてだ。神木の力が失われるなど、聞いたことも無い。前代未聞の事態だ。
「ああ、ツェツィーリア様。私たちは、いったいどうしたら良いのでしょう」
若い女性が、嘆き悲しみながら言う。縋り付くような瞳をしている。だが、長であるツェツィーリアにもどうしたら良いのかが分からない。神々へ祈るくらいしかできない。自分たちの無力さが腹ただしい。
「……今は、祈りましょう」
ツェツィーリアはそう言うのが精一杯だった。祈ることで大きく事態が変わる訳ではない。そう彼女も分かっていたけれど。
――一方その頃。南の森をグレイスとコーネリウスは全速力で走っていた。幼馴染で親友。とても大切な存在である、ミスティアを助ける為に。少し遅れる形で、武器を手にした何人かのルルディ族も木々の合間を縫うように走っている。
「……もう少し、だよな?」
コーネリウスが硬い声で問う。そのすぐ隣でグレイスが頷く。いつもは穏やかで、ゆったりとした時が流れる南の森。しかし、今日は明らかに漂うものが違う。
不安がグレイスの心を満たす。ミスティアは無事なのだろうか。この森で、たったひとり戦っているはずの少女は。コーネリウスもまた、かけがえのない存在の名を叫ぶ。
「ミスティア! ミスティア、どこにいるんだ!?」
少年少女の声が、不穏な森で響いた。返事はない。コーネリウスとグレイスがぐるりと辺りを見回す。人の姿は、やはり見当たらない。ミスティアは戦っているうちに、移動してしまったのだろうか。それ以外の答えは、想像するだけで恐ろしい。
グレイスが強く拳を握り締めた。爪が食い込んで痛む。だがそんなことよりも、胸が痛い。やはり、ミスティアをひとり森の奥地に残すのは、正解では無かったのではないか。いや、そもそも南の森へ入ったこと自体が間違いだったのかもしれない。安全だと思いこんで、グレイスは彼女と共に、森に立ち入った。誘ったのは自分だ。グレイスは泣きたくなる。
「どうしよう、コーネリウスくん……わっ、私のせいで、ミスティアがっ……」
彼女は震えた声で言う。声だけではない。身体もがくがくと震え、顔は真っ青だ。
「おい、しっかりしろ、グレイス!」
「……でもっ」
「ミスティアはそんなに弱い奴じゃないだろッ! 俺たちがそれを一番知っているはずだ!」
その時だ、少し先から魔法の炸裂する音が響いてきたのは。漂う空気が魔力で歪んだのが分かる。ルルディ族はそういったことに繊細だ。
「もしかして、ミスティアが……?」
「行ってみよう!」
「うん……!」
コーネリウスとグレイスは駆け出す。音が聞こえてきた方向へ、大地を強く蹴って。魔物が唸る声もした。間違いなく誰かが魔物と戦っている――コーネリウスたちは確信した。そしてその「誰か」というのがミスティアであることを信じ、音を辿る。必ず三人でアルビジアの街へと帰る。そんな誓いを立てて、彼らは走った。
「……もう、しつこいわね!」
魔物の数はやや減ったとはいえ、それでも優勢なのは自分では無かった。ミスティアは肩で息をする。魔物は相変わらずぎらついた目で、ミスティアのことを睨んでいた。愛用する杖に嵌め込まれた魔石は、あとふたつ。魔石は溜め込まれた力を全て放出すると、光を失う。そうなるとそれはもう、ただの石でしかなくなってしまう。彼女に残されているのは、風の魔力を秘めた石と、雷の魔力を秘めた石がひとつずつ。加えて、ミスティア自身の体力も減りつつあった。
「どう、しようかな……このままじゃ逃げ切れないし……」
逃げ出したところで、追いかけられる。ミスティアにはそれが分かっていた。アルビジアに危険が迫るような、愚かな選択をするわけにはいかない。なんとか、ここで戦いを終わらせなければ。アルビジアには幼い子供や、年老いた者も多くいる。弱者を見つければ、魔物はそういった者たちから順に襲っていくことだろう。魔物には卑劣な本能がある。
はあ、と彼女が大きく息を吐き出した、その時だった。後方から聞き慣れた声がしたのだ、ミスティアは一瞬、耳を疑った。
「ミスティア!」
その声は、自分の名前を大声で呼んでいる。
「コーネリウス!?」
「良かった、無事だったんだな!」
コーネリウスが、魔物に番えた矢を素早く放って言う。魔物はそれを避けきることが出来ず、致命傷を負い、その場に伏した。ミスティアへの援軍に、魔物たちはなお唸り声を上げる。
「ミスティア、遅くなってごめんね! 私も戦うわ!」
そう続くのはグレイスだ。彼女は手にした杖を高く掲げた。嵌められている魔石は――色からして、おそらく氷の属性を持つものだろう。ミスティアがそう答えを出しているうちに、グレイスの魔法が――ミスティアの想像通りの氷塊が、魔物に直撃する。
「来てくれたのね、ありがとう、ふたりとも!」
「ああ、当たり前だろ!」
よくここまでひとりで頑張ったな。そうコーネリウスが言っているうちに、顔見知りのルルディが三人現れる。若い女性がふたりと、彼女たちと同年代の男性がひとりだ。ミスティアは、その三人にも感謝の言葉を口にした。全員が頷き、魔物へとそれぞれの得物が向けられる。あっという間に形勢は逆転した。魔物は見る見る間に減っていき、最後まで抗っていた魔物もミスティアが放った雷で塵となった。
「はあ、はあ……」
ミスティアの息は荒い。はじめてだ、こんなに魔力を消耗する戦いは。
「……お疲れ様、ミスティア」
女性がゆっくりとミスティアへ歩み寄り、杖を掲げる。彼女の杖に嵌められているのは、治癒効果のある魔石。白い光がミスティアを包み込んだかと思うと、無数の傷を優しく癒やしていく。
「……ありがとう。本当に。あなたたちが来てくれなかったら、私は」
「ううん、気にしないで良いのよ。それより、大変なの」
杖を下げ、女性は続けた。突如として自分たちに降り掛かった、あの事を。
「神木の力が失せているの。こんなことは初めてよ」
「えっ、神木が……!?」
ミスティアは驚きを隠せない。ルルディは古より自然の中で生きる者。森や水、空や大地と共に生きる者。あの神木は遙か遠い時代から、ルルディ族のことを見守ってきたとされる。そしてそれは、これからもそうであり続ける。誰もがそう信じていた。ミスティアも、グレイスも、コーネリウスも。そしてツェツィーリアも。神木が完全に枯れてしまったら。そう考え出して、ミスティアは首を振った。急いで戻らなければ。ここで戸惑っていても、何も変わらない。寧ろ、時が流れ落ちていくことで、事態が深刻化してしまうかもしれない。治癒魔法のおかげで、ミスティアの体力はある程度回復していた。街へ戻るくらいなら大丈夫だろう、ミスティアはそう考えてグレイスたちを見た。行きましょう、と言えば、この場にいる全ての者が頷く。先頭でミスティアは走り出す。鳥たちの声が響かない、不気味なほど静まり返った森の中を。




