09
カツンコツン。セレーネの足音だけが高く鳴る。光の神殿――最奥部。ここはあまりにも静かだった。もうこれ以上は、立ち入ってはならない場所かもしれない。けれども、彼女は足を止めることが出来なかった。恐ろしいけれど美しい。いや、逆に美しいから恐ろしいのかもしれない。まるで磁石のように、セレーネはそれに引き寄せられてしまっている。
「……?」
ゆっくりと祭壇に近寄るセレーネが、あるものを見つけた。降ったばかりの雪のように、真っ白な石像。大きさは、セレーネの背と同じくらいある。つまり、等身大ということだろうか。セレーネが首を捻った。また一歩、石像に近付く。美しい女性を象ったその石像。彼女の目尻には、今にも流れ落ちそうな雫までもが再現されている。
「これは……もしかして……」
セレーネはひとつの答えを見つけた。ここは光の神殿。光の女神ルーチェを祀っている。つまり、これはおそらくその女神ルーチェの石像。彼女は、女神を模した石像など、一度も見たことがない。当たり前と言えば、当たり前ではある。女神ルーチェは、哀しそうな表情で目を上へと向けている。
それは、無意識に、だった。セレーネの腕が、石像へと伸びたのは。彼女の指先が冷たい石像に触れた途端、眩い光が発せられる。光が神殿の中を満たす。建物の中なのに、どういうわけか強い風が吹いている。セレーネの髪は、衣服の裾は激しく揺れた。なんとか目を開くと、セレーネは歯を食いしばり、もう一度女神像へ手を伸ばす。だが、何にも触れられない。届かない。さっきは確かに触れることが出来たはずなのに。
――気付くと、セレーネは真っ白な世界にいた。自分は光の神殿にいたはずだった。しかしここには石像も、祭壇も、何もない。虚ろとでも言えばいいのだろうか。セレーネは、もつれる足で数歩前に出る。だが、自分ではない誰かの気配も、姿もない。不安と恐怖というものが、音無く芽を出しかけた時だった、彼女の耳に声が響いたのは。
「この世界の為に、力を振るう覚悟はありますか」
「え……?」
「自らが望むものの為に、違う願いを抱く者を、その手で傷付けることがあなたには出来ますか」
ついさっきまで、他者の気配すらなかった。だがセレーネは聞き取る。淡々とした女性の声を。時々ノイズ混じりだが、セレーネは一文字も聞き逃すことはなかった。しかし、その問いかけは謎めいていて、どういったことを言っているのかまでは理解が難しい。
白い世界を、セレーネは前へと進んだ。いや、本当に前へ歩いているのかも良くは分からない。びゅうびゅうと風の音がする。怯えながら、彼女は歩いた。
この不可解な場所に飛ばされて、どの程度経ったのか。セレーネの視界に、女性の姿が飛び込んできた。アメシストのような紫色の瞳。そして限りなく色素の薄い髪。抜けるように白い肌。すらっとした身体の美しい女性だった。会ったことはないはずだ、だがしかし、その姿には見覚えがある。困惑しながら思いを巡らせるセレーネに、彼女はまた口を開いた。目の前にいるからだろうか、つい先程のようにノイズがかかっている訳ではなかった。
「この世界は……わたくしたちが愛するセフィーラは、少しずつですが蝕まれています。彼の者が今も抱く、暗い願いに。このままでは、悲劇が繰り返されるでしょう」
彼女は苦しそうに続ける。
「そのようなことになれば、たくさんの血が流れる。古の時代よりも、ずっと多くの犠牲が出てしまうかもしれません」
不穏な台詞。セレーネは小さく震えた。彼女が綴っていくそれが、何を指し示しているかは、やはり良く分からないが。
「だから、わたくしは、あなたに託さなければならないのです。セフィーラが絶望に支配される前に」
「えっ?」
こぼれ出た、小さな声。
「……セレーネ・エレーミア。お願いがあるのです」
どういうわけか、紫の瞳をした彼女は、名乗ってもいない少女のことをフルネームで呼んだ。
「セフィーラに、希望の光を当ててください。わたくしは、あなたにこの力を託します」
その言葉が言い終わった直後、セレーネは光に包まれた。眩しいだけではない。あたたかくて、優しい。心を支配していた不安を、そっと拭ってくれるような光。
「――わたくしは光の女神ルーチェ……古の時代より、人の子はわたくしのことをそう呼びます」
「……!」
セレーネは驚きのあまり、目を見開く。これは、夢や幻、そういった類のものではないか。そう疑いたくなってしまうほどに、衝撃を受けた。
光の女神ルーチェはかつて「クラウディア」というひとりの女性に祝福を授けた。彼女のことを「光の巫女」に選んだのである。
クラウディアは何人かの仲間と共に、セフィーラを救う戦いに身を投じた。死闘の末、クラウディアは「破滅の巫女」を封印することに成功した。自らが、その鍵になって、途方も無く長い眠りにつくことを引き換えに。クラウディアは聖女として、歴史に名を残した。伝承となり、今でもその勇気ある行いは、セフィーラ中で語り継がれている。
「……セレーネ・エレーミア」
女神が呼びかけた。
「あなたの戦いを、わたくしは見ていました。それだけではありません。あなたが懸命に努力して生きてきたその道を、ずっと見ていました。セレーネ、あなたをわたくしは選んだ――新しい、光の巫女として」
セレーネは耳を疑う。自分が巫女に選ばれるなど、一度も想像してこなかった。女神ルーチェは穏やかで、しかし僅かに悲しみの色が滲む目で、セレーネを見つめている。
「くっ……」
唐突に、手の甲を走った痛みに、セレーネは思わず声を漏らす。左手がじんじんと疼く。まるで、真っ赤に焼かれた鉄を、強く押し付けられているかのようだ。
「あなたには仲間がいる。クラウディアがそうだったように。どうかこの願いを、叶えてください。わたくしたちが、愛し続けてきたセフィーラを導いてください――」
女神ルーチェはすべてを言い終わると、霧のように姿を消した。取り残されたセレーネが立っているのは、神殿最奥の祭壇前。白一色で塗りつぶされていた、あの空間ではなかった。
セレーネは左手の甲をまじまじと見た。そこには、十字架のような刻印。まだある程度の熱を持っており、痛みが完全に消えたわけでもなかった。まさかの展開に、セレーネは狼狽える。光の巫女。自分がそういった存在になった、という実感が無い。聖女クラウディアと同じ肩書だなんて、信じ難い。
だが、ここに留まっていても仕方がない。セレーネは歩いて来た道を引き返す。足が、心が、酷く重い。きっと、不思議な出来事に疲れてしまったのだろう。内部に、生きた魔物はもういない。それでも彼女は手にした杖を、ずっと強く握り締める。
――この世界の為に、力を振るう覚悟はありますか。
――自らが望むものの為に、違う願いを抱く者を、その手で傷付けることがあなたには出来ますか。
女神の謎めいた問いかけが、反響する。今の自分に、そんな覚悟や力があるとは思えない。しかし、女神ルーチェはセレーネの返事を待たずに、彼女を巫女に選んだ。ズキズキと頭が痛む。
セレーネは痛みを堪えながら、そしてこれからどうしたらいいのかと考え込みつつ、光の神殿をあとにする。そして、ディセントラの街で待つ、両親のもとへ急いで向かう。なにひとつ答えを出せないまま。




