07
「……そう。だからあなたはディセントラへ帰ってきたのね」
夕食後。母はセレーネの話が終わると、ゆっくりとした口調で言った。父は熱い紅茶が注がれたカップを傾ける。白い湯気と芳しい香りが立ち上る紅茶を、セレーネも一口飲んだ。母の淹れる紅茶は大変美味で、同時に懐かしい味がする。
「セレーネ。王都での暮らしはどうだ?」
「とても楽しいよ。課題はたくさん出るし、試験も難しいけれど……それ以上に楽しいの。新しい友達も出来たし」
「……そうか」
父は一度言葉を切った。
「お前が魔道士になりたいと言い始めた時は、心配したものだが……それなら良かった。毎日充実しているようだな」
セレーネの返答に、彼は微笑する。魔道士への道は厳しい。娘がハイドランジアの魔法学校への進学を決めた時、父は言ったのだ、そう簡単に叶えられる夢ではない、と。しかし、セレーネは折れなかった。何回も繰り返し訴えた。どうしても魔道士になりたい。多くの人を助けられるような、たくさんの人を守れるような、立派な魔道士に。森で魔物に襲われ魔道士に助けられたことは、セレーネの心にずっと横たわっている。それはそう、今でも。
「でも、良かったわ。あなたが元気そうで」
母が言い、父も「ああ」と頷く。セレーネも微笑んだ。両親のもとを、故郷ディセントラを離れて、ハイドランジアの学生寮で過ごす日々は何もかもが新鮮で、それと同時に刺激的だ。父の言う通り、充実している。難しい課題を出されると、友と一緒に図書館に籠もる。実技試験の前は学校に残って、そこで鍛錬を積む。そういった多忙な日々の合間を縫って、親しい仲間と街に出たり、カフェに入ったりする。
母や父、それからディセントラで暮らす友人たちと離れるのは、確かに寂しいけれど、それ以上のものを与えられている。セレーネはそう思っていた。
「セレーネ、あなたならきっと魔道士になれるわ」
「ああ。どうやら、心配は要らないようだな」
「お母さん、お父さん……」
「だから、セレーネ。あまり無理はしないのよ。今まで通り真面目にやっていけば、大丈夫だから」
母はそっと娘の頭を何度か撫でる。普段であれば「くすぐったいからやめてよ」と言ったかもしれない。だがセレーネは拒まなかった。優しいぬくもりが嬉しかった。母の手のそれと、父の向ける眼差しが。
夜が訪れて、闇が満ちる。次第に新しい日が迫ってくる。そんな時間まで、セレーネは両親と様々なことを語り合った。今までのこと。これからのこと。ハイドランジアでのこと。ディセントラでのこと。話は尽きない。だがそろそろ眠る時間だ、そう父が言って、親子は名残惜しそうにそれぞれの部屋に戻っていった。
セレーネの部屋は二階にある。久々に上がる階段。扉を開ければ、記憶と違わぬ光景が彼女を待っていた。不在の間も、母が掃除をしてくれているのだろう、室内は綺麗なままだった。埃っぽさも無い。薄いピンクのカーテン。それより少し濃い色のクッション。白いシーツ。それからベッドの脇には幼い頃に買ってもらったぬいぐるみ。本棚には懐かしい顔ぶれ。部屋のすべてが、セレーネに「おかえりなさい」と言っているかのようだ。
セレーネはベッドに潜り込む。ハイドランジアから森を抜けたので、足はそれなりに疲れている。冷たく感じられた布団も、数分も経てばセレーネの体温でじんわりと温まった。目を瞑る。新しい日を目指して、彼女は夢に落ちていった。
「……と、いうことらしい」
「まあ、それは大変だわ……」
「ああ、悪いことが起きなければいいのだが――」
いつもより少し起床が遅くなってしまった。そんなことを考えつつ、セレーネが下に降りると、父と母は顔面蒼白で何かを話していた。娘が階段をおりてくる音にも気付かない。セレーネは小首を傾げた。
「いったい、どうしたの?」
「あ、ああ、セレーネ。おはよう。実は光の神殿に魔物が何体も現れたそうだ」
父は珍しく動揺している。光の神殿はディセントラで最も神聖で、それと同時に大切な場所。神殿へと向かう道は通常、閉鎖されていて、一般人は近付くことすら許されていない。それだけではなく、幾重にも結界が施されている。他の街にある神殿以上に、厳重に守られているのだ。故に、魔物が出たなどという話は一度も聞いたことがない。
「討伐に、何人か向かったそうだけれど……」
母は目を伏せた。父が続けた話によれば、その魔物は森に生息しているようなものよりも、ずっと危険で凶暴なものらしい。
「……あの、お父さん。お母さん」
少しだけ時間をおいて、セレーネは言った。
「――私、行ってみる。光の神殿へ」
彼女の声は凛としていた。普段よりきりっとした眼差しの娘に、両親は顔を見合わせる。そして先に口を開いたのは、母だった。
「駄目よ、セレーネ。絶対に駄目。そんなの、危険すぎるわ! 確かにあなたは魔法を使えるけれど……!」
お願いだから考え直して。母はセレーネの肩を揺さぶった。そんな母に、セレーネは首を振る。
「誰かがなんとかしなければ、きっとディセントラ……ううん、セフィーラに災いが起きるかもしれない。黙って見ているわけにはいかないよ、お母さん」
「でも……!」
母の瞳が濡れている。セレーネと同じ色の瞳が。
「ね、ねえ、お父さん。お父さんもセレーネに何か言ってください!」
「……セレーネ」
口を閉ざしていた父は、何かを確かめるように一人娘の名前を呼ぶ。
「は、はい」
「母さんの言っていることは分かるな?」
「……はい」
「お前は、それでも光の神殿へ行くのか?」
既に神殿に向かった者たちは、きっと腕に自信がある者たちだろう。しかし、彼らが発ってどれだけ経ったかはわからないが、今のところ連絡は一切無い。想像以上に凶悪な魔物なのかもしれない。
「……本当のことを言えば、ちょっと怖いよ。でも、このまま放っておいたら、もっと怖いことが起きるかもしれない。それに、私は……大好きなディセントラと、ディセントラのみんなを、この手で守りたい……!」
セレーネは言った。真っ直ぐに母と父を見据えて。
「……無理だけはするな」
「あ、あなた……!」
「リュンヌ。セレーネは、私たちが思っている以上に強くなった。それに、ここまで言ったセレーネの覚悟を私は受け止めてやりたい」
父が母に言った台詞は、セレーネの心にも響いた。故郷を離れて積み上げてきたすべては、今この時の為だったのかもしれない。セレーネは杖を取りに自室へ駆け戻る。彼女の母は苦しげに、愛する夫を見た。
「……セレーネに何かあったら、わっ、私……!」
「分かってやれ、リュンヌ。あの子はもう、幼い子どもではない。自分で考えて決めたことだ」
「でも……」
母はまだ、受け止めきけていない様子だった。セレーネはたったひとりの娘。大切に育ててきた、かけがえのない存在。そんなセレーネを、危険な目に遭わせたくなどない。理性も知性もほとんどない魔物は、無差別にヒトを襲う。それだけが本能とでも言わんばかりに。
「……行ってきます!」
数分後にはセレーネが杖を手におりてきて、彼女はすぐに家を飛び出していった。母にこれ以上反対される前に、と彼女は思ったのかもしれない。ばたんと勢いよく閉まる扉。母は愛娘へと手を伸ばすが、掴めるのは虚空だけ。
「あ、ああっ……セレーネ!」
その場で崩れ落ちてしまいそうになった妻を、彼はがっちりとした腕で支えた。
「……必ず、必ずここに戻って来るんだ。セレーネ。お前ならきっと――」




