02
「もう、マリーツァったら、相変わらずお寝坊さんね」
やっと起きたの、と少々呆れ顔で言う母を見て、マリーツァは少しだけ安心した。ああ、あれは夢だったのだ、と。聖女クラウディアからあのようなことを言われるなんて、ただの夢に決まっている。
セフィーラは、神々に愛された世界だ。神々から祝福と力を与えられた「巫女」の存在は確かに在ったとされるが、それももう、遠い時代の物語。セフィーラ各地にある神殿の存在も、マリーツァやその家族、誰もがクラウディアのことを聖女として崇めてきたのも事実ではあるが。
窓の向こうには真っ青な空。ここは浮遊大陸「アイレ」に築かれたシエル王国の王都ハイドランジア。セフィーラにはアイレ大陸以外にも、幾つかの大陸は存在しているのだが、その中でここが最も大きく、繁栄している。
空を翔けるのは鳥と、彼らが持つ翼を夢見た人々が発明した飛行船。ここから他の地域へ行くには、それに乗る必要がある。と、いってもマリーツァはまだ別大陸へ行ったことが無かった。いつかは行ってみたい。そう願う自分も確かにいるのだけれど。
それに、とマリーツァは思う。浮遊大陸のずっと下――外界と呼ばれる世界への興味もある。空に浮かんだアイレの民であるマリーツァには、その世界がどのようなものなのか、見当もつかない。
「今日はエテレインのところへ行く日でしょう?」
母が言う。マリーツァはそうだったね、と返し、ベッドから抜け出す。四つ違いの妹は病弱で、ハイドランジア最大の病院に長いこと入院している。
母は早く支度をしなさいね、と言ってマリーツァの部屋を出ていった。残されたマリーツァは、いつの間にか空へ向いていた視線を戻すと、手早く着替える。お気に入りの服を着て、それからやはり気に入っている髪飾りをつけて。
「……それにしても」
本当に妙な夢だったな。マリーツァは鏡の中にいる自分を見つめてから、改めてそんなことを思った。
エテレインの病院は、ハイドランジア中心部にある。春の盛り。街のあちこちで花々が胸を張って咲いている。漂ってくる仄かに甘いこの香りも、それらが放ったものだろう。鳥たちの囀りも美しく響く。
マリーツァは母とともに坂を登り、病院を目指した。程なくしてそれが見えてくる。澄み渡る空に向かって高く伸びるシエルの城から、そう離れていない場所に、それはあった。エテレインの病室からも王城はよく見えるのだ。この国の繁栄の象徴たる王城が。
慣れた様子で面会の手続きをし、マリーツァたちはエテレインの部屋を目指す。彼女の病室は三階にある。階段を登っていく。一段一段登るたびに、マリーツァの心は大きく揺れた。夢が纏わり付いてくる。あの聖女クラウディアが救いを求める夢が。ただの夢だ。マリーツァは自分にそう言い聞かせるが、クラウディアの眼差しを思い出すと、どうしようもなく不安にもなる。もしも、夢で無かったのなら、と。
花の神殿に行ってほしい。そうクラウディアは言っていた。花の神殿。それは、セフィーラに幾つか存在する神殿のひとつだ。花の女神を祀っているその神殿は、隣の街にある。つまり、ここハイドランジアからそう遠い場所ではない。行こうと思えば行ける距離だ。もし花の神殿が、例えばアイレ大陸ではないどこか遠くにあるのだとしたら、こんな風に迷うことはなかった。本当に夢だったのだと、振り払うことができた。だが、その神殿は隣の街にあるのだ、無理な話ではない、そこに行くことは。けれど。
そうこう思っているうちに、エテレインの病室へ辿り着いていて、母は先に入室していた。母が扉を開ける音で我に返ったマリーツァも、続く形で部屋に入る。
白いシーツと、同じ色の掛け布団。今は開けられているが、夜になれば窓を覆うカーテンもまたそれと同じ白。病室ということもあって、この部屋は酷く殺風景だ。年頃の少女らしいものは、枕元に置かれたテディー・ベアくらいだろう。これはエテレインの入院が決まった時、寂しくないように、とマリーツァが買ってきたものだ。
「具合はどう? エテレイン」
母が問いかけた。エテレインは少しだけ表情を緩ませる。どうやら今日は、それほど具合が悪くないらしい。
僅かに開けられた窓から、春の風が入ってくる。長い冬がようやく終わって、人々が待ち望んだ季節がやってきたのだ。けれど彼女は外に出ることが出来ない。少し動いただけで、エテレインは息切れをしてしまうだろう。もう少し体力があれば、一緒に花を見に行ったり出来たかもしれないのに。
エテレインは姉であるところのマリーツァのことを見た。青い瞳は姉妹でお揃いだ。
「お姉ちゃん、来てくれてありがとう」
「うん。前より顔色が良さそうだね」
マリーツァは母とともに、足繁くこの病院に通っている。エテレインはたったひとりの妹だ。いつか元気になったら、彼女と一緒に出かけて、綺麗なものを見たり、美味しいものを食べたり出来ればいい。そう思っている。今の所、それはマリーツァが抱く願望でしかなく、現実味はないのだが。
「あのね、お姉ちゃん。私、最近不思議な夢を見るの」
おずおずと切り出した妹に、マリーツァは目を見開いた。まさか、エテレインまであのような夢を見たのだろうか。
「見たことのない人が、私に何かを訴えてくるの。はじめて夢を見た時は、何を言っているかは全然分からなかった。その人の顔だってよく見えなかった……。けど、同じ夢を何度も見るうちに、少しずつ、姿ははっきりとしていって……でも、それでも、言葉は分からないまま……」
エテレインは不安そうな目をしていた。それを聞くマリーツァは、妹も自分同様によく分からない夢を見ていることを、不思議に思った。大抵、夢とはよく分からないものだ。そこに現実世界の理は存在しない。いつだって、朧げに現れては消える。そのはずなのに、マリーツァとエテレインの見た夢は、くっきりとした輪郭のあるものだったようだ。
あれは――本当に聖女クラウディアのお告げだったのかもしれない。だが、マリーツァは目の前にいる妹のように、夢の内容を口に出来なかった。心には、不安に似たものが広がっていく。
「エテレイン。それは夢でしょう?」
姉妹の母がからからと笑って言った。エテレインは納得がいかない、といった顔をしたままだ。そんな娘の頭をそっと撫でながら、母は付け足す。
「あなたは、昔からそういうお話を読むのが好きだったじゃない。それの影響でそんな夢を見たのよ。あんまり気にすることではないわ」
「……そうなのかなぁ」
目線を外に向け、エテレインは呟いた。遠くに飛行船が飛んでいるのが見えた。それを見るエテレインの表情は優れない。
「そういえば、明日は検査があるのよね」
もう夢の話は終わり、といった様子で母は言う。マリーツァはもう少し妹の話を聞きたかったのだが、これ以上その話をするのは無理そうだ。カチコチと時計の針が正確に時間を刻んでいく音が、彼女たちの間を進んでいく。ここが現実であると姉妹に言い聞かせているかのよう。
「ちゃんと休みなさいね。また来るわ」
「……うん」
「またね、エテレイン」
「うん、ばいばい、お姉ちゃん。ありがとう」
本当は、聖女クラウディアが現れた夢を、妹にしたかった。妹も同じように不思議な夢に揺らいでいた。だから、分かりあえたかもしれない。この話をしても、母はきっと取り合ってくれないだろう。マリーツァは数歩前を歩く母の背を見つめながら、そして彼女に気付かれないように、小さな溜め息を吐く。世界は何一つ変わっていないのに、不安になる。
明日は、友人のミカエラと会う約束をしている。彼女に相談してみようか。マリーツァはそんなことを考える。ミカエラとは長い付き合いで、一番の親友と言っても良いような、そんな関係。彼女は賢く、聞き上手だし、なにかアドバイスをくれるかもしれない。マリーツァは薄紅色の髪をさらさらと揺らしながら母に駆け寄って、彼女の横に並んだまま自宅へ戻るのだった。