06
セレーネとフォーサイス教授は、その後魔物に遭遇することなく、無事ディセントラへ到着した。アーチをくぐって、セレーネは久し振りの故郷で深呼吸をする。
彼女の隣で、フォーサイス教授もぐるりと辺りを見回した。以前、ここに来たのはいつだっただろう。それはもう随分と前のことだ。けれどディセントラは変わらず美しい街だった。たくさんの花が咲き、青い空は、王都ハイドランジアよりも高く濃く見える。少し先に目を向ければ、広場のようなところで子どもたちが遊んでいる。セレーネも目を細め、それを見た。とても懐かしい。幼い自分も、ああやって友達と遊んでいたっけ――セレーネはそんなことを思い起こす。
帰ると連絡もせずに、この街へ戻ったのは王都の魔法学校に入学してから初めてだ。突然のことに、父と母は驚くだろうか。
「セレーネくん。君のおかげで無事、ディセントラへ来ることが出来たよ。本当にありがとう」
フォーサイス教授はそう言って、頭を下げる。
「君はきっと、良い魔道士になれるだろう。幼かった頃の君を助けたという魔道士のようにね。それでは私はやることがあるからここで失礼するよ」
「え、ええ」
教授は一度背を向けたが、すぐに振り返った。
「ああ、大事なものを忘れていた」
彼は静かにセレーネに歩み寄って、あるものを差し出した。それは、とても綺麗な魔石。白い光を放つそれはまるで宝石のよう。然程大きな石ではないけれど、この輝きから察するに、大変純度の高い魔石だ。学校で魔法を学んでいるセレーネにはそれがよく分かった。
「お守りがわりに受け取って欲しい」
「え、でも……」
「何、遠慮することはない。私からのお礼の気持ちだよ」
フォーサイス教授はセレーネの手にその魔石をそっと乗せると、再び背を向け、そのまま去っていった。魔石は煌々と輝き、じんわりと温かい。セレーネは両手で魔石を包むようにして、フォーサイス教授の姿が見えなくなるまで動かなかった。
「……家に、帰ろうかな」
明日から三連休。今すぐに再び森を抜けて、ハイドランジアへ帰る必要はなかった。王都で友人と会う約束があるわけでもなく、提出を急ぐ課題もない。セレーネは、魔石をしまって、歩き慣れた道を、たっぷり時間をかけて進んでいく。故郷ディセントラは、記憶の中のそれと一切変わらない姿で、セレーネのことを出迎えてくれていた。
セレーネの実家は、ディセントラの中心部からやや南にある。ここで彼女は生まれ育った。十四で王都ハイドランジアにある魔法学校へ入学するまで、ずっとここで生活をしていた。
それでも、東のはずれにある光の神殿へ行ったことはない。神殿へと続く道は封鎖されているからだ。光の女神を祀るその神殿は、シエル王国、というよりはこの世界――セフィーラでも特に重要な場所。聖女クラウディアを巫女に選んだ光の女神ルーチェ。クラウディアは、あの神殿で巫女としての力に目覚めたのだろう。セレーネは考える。花の巫女は、この時代にも現れた。マリーツァという名前の、自分より少しだけ年上の少女。彼女が巫女として目覚めた理由は、彼女が与えられた力を振るう意味は、破滅を望む者からセフィーラを救うこと。御伽噺のようだ。けれど、それは現実なのだ。
セレーネは教授から受け取った魔石を出して、手のひらに乗せる。変わらず輝く石。この魔石の属性は炎ではない。氷や地でもない。きっと雷とも違う。ではいったい何なのだろう。お守りだと彼は言った。セレーネはそこまで考えて、もう一度魔石をしまった。今ここで考えても答えなど見つからない。それに、フォーサイス教授がお守りと言ったなら、そうなのだろう。少なくとも、杖に嵌め込んで使うような魔石ではない。セレーネは止まっていた足をもう一度動かしていく。
十分弱歩けば、実家が見えてくる。記憶の中と同じ姿をしたそれが。以前と違うのは庭の花ぐらいだろう。母は庭いじりが好きで、セレーネもよく手伝った。今は母ひとりでたくさんの花々を育てているようだ、庭に咲くそれらは、どれもこれもが自慢げに胸を張っていた。
セレーネは大きく深呼吸をして、ベルを鳴らす。聞き覚えのある音を追いかけるような形で、聞き慣れた母の声がした。鍵がガチャリと回る音。その直後に扉が開かれる。母は連絡も何も無く突然帰っていた娘に、目を見開いた。いったい、どうしたの。そう尋ねる声に、娘はこれまでのことをかい摘んで話した。
「そう……びっくりしたわ。でも、おかえりなさい、セレーネ。あなた、少し背が伸びたわね」
ふふ、と母は笑って、セレーネの頭を撫でた。
「お父さんもいるわよ。今日はお仕事が早く終わったみたいで、さっき帰ってきたのよ。今は、書斎で本を読んでいると思うわ」
「そうなんだ。なら、ちょうど良かったかも」
「そうね。ほら、早く靴を脱いで?」
促す母。セレーネは頷いて、多くの大切な思い出が焼き付いている家へと入った。
家はとても綺麗に片付いている。父がきれい好きということもあって、廊下にも棚にも埃ひとつ無い。
「お父さん。セレーネが帰ってきましたよ」
書斎へと急いで、母は嬉しそうに言った。父は本へ落としていた目線を上げる。娘が自分のことを見つめていることに気付いた父親は、予想外のことに驚いたようだったが、それでも優しい声を発する。
「……セレーネ、随分と突然だな……いや、その前におかえり、だな」
「ただいま、お父さん」
父は本を置いた。しっかりと栞を挟むことも忘れずに。表紙が見える。どうやら、歴史小説を読んでいる途中のようだ。セレーネの父は読書家で、時間があればこうやって書斎に籠もり、本のページを捲っている。
「どうした、王都で何かあったのか?」
「あ、ううん。ちょっとディセントラまで来る用事があっただけ。明後日には帰らなきゃいけないんだけど」
「……そうか」
セレーネは「用事」と言って細かいことを語らなかったが、父も母もそれ以上追求することはなかった。ただ、愛する娘との再会を喜んでいる。母は微笑み、父は優しい声を発し――流れ落ちる時間は、どこまでも穏やかだ。
「じゃあ、今日のお夕飯はセレーネの好物にしましょうね」
「ありがとう、お母さん!」
「良ければ王都での話も聞かせてくれ」
「うん、もちろん」
親子は幸福の中にいる。いつまでも、ずっとずっと、続いて欲しい。そう願いたくなるくらいの幸福の中に。