01
その日、マリーツァは不思議で長い夢を見た。色とりどりの花が咲き誇る場所で、美しい歌声を耳にする夢を。
その歌声は遠くから響いてくる。しかし、その歌詞はマリーツァの理解できる言語ではなく、何を意味しているのかはさっぱり分からない。けれど、心惹かれる歌声だった。ただ美しいだけではない。どこか悲しくて、何かを訴えかけてくるかのような、そんな歌。
マリーツァは辺りを見回す。彼女を見下ろす青い空に、雲はひとつも無い。青々とした大地にはたくさんの花が咲いていて、色彩に溢れている。こんなに美しい場所を、彼女は知らなかった。マリーツァは恐る恐る歩き始めた。草を踏みしめ、時折空を仰ぎ、歌声の主を探す。
どれだけ歩いただろう。マリーツァの視界に、ひとりの女性の姿が飛び込んできた。微風に揺れるのは、きらきらと輝く金色の長い髪。女性はマリーツァに背を向けている。歌は続いている。マリーツァがまた一歩、彼女に歩み寄った。
「あっ、あ、あの……ここは……」
絞り出す声は、自分でも驚くほどに掠れていた。それでもマリーツァのそれは彼女の耳に届いたらしく、歌がぴたりと止まった。その途端、風の音しか聞こえなくなる。
「ここはいつかの夢であり、いつかの現実の世界」
「え……?」
女性は背を向けたまま、歌うように言った。彼女の言っていることが、少しも理解出来ない。戸惑うマリーツァに微笑みかけるかのように風が吹いた。
青い空には燦々と光を放つ太陽。生い茂る緑。女性はしばらく間を置いて、それからようやく振り返った。マリーツァに向けられたその眼差しは、酷く寂しそうだ。そして、その顔には見覚えがあった。しかし、どこで見たのか――マリーツァは記憶を辿り、首を傾げる。空色の瞳。金色の髪。病的なほどに白い肌。
「……わたしはクラウディア」
マリーツァが答えを導き出す前に、彼女は名乗った。
――クラウディア。マリーツァがその名前を反芻するように呟く。そして、その答えを見つける。金髪に青い瞳をした、美しい歌声を持った、彼女は。
「もしかして……あなたは、光の巫女様……?」
マリーツァの台詞を聞いた途端、彼女は――クラウディアは一瞬悲しそうな目をして、それから「ええ」と頷いた。
緑に覆われた豊かな大地が広がり、澄み渡る青空には幾つかの浮遊大陸が存在する――神々に愛された世界、セフィーラ。
セフィーラには、とある伝承が遙かなる時代より語り継がれてきた。
神々は時が来ると人の子を選び、祝福を授ける、と。選ばれた者たちの手の甲には聖なる印が刻まれ、同時に強大なる力を手にするとされている。人々は選ばれし彼女たちを「巫女」と呼ぶ。その力は世界の為であったり、何かの願いの為であったり――時には破壊の為に振るわれる。
これが、この世界に生きる者ならば、誰もが知っている伝承だ。
クラウディア。彼女こそが、古の時代に世界を救ったとされる、光の巫女。マリーツァは戸惑いを隠せないまま、クラウディアを見つめた。
光の女神に祝福を与えられた彼女は、破滅の女神に選ばれ、強大な恐ろしい力を授けられた破滅の巫女を封印し、その鍵となって聖地と呼ばれる場所で眠りについたとされている。そのようなことから、古の光の巫女クラウディアは「聖女」と呼ばれ、今でも信仰の対象とされている。
マリーツァは目眩がした。そんな彼女が自分の目の前に立っているなんて。驚くマリーツァに、クラウディアはこう切り出す。
「これは夢。聖地で眠るわたしが、あなたに見せている夢」
彼女は続けた。
「……彼女の封印がとける日が近付いています。だからわたしは、伝えなければならない。世界の為に、未来の為に、新しい巫女となる人の子を、神々は探している」
「えっ?」
「もし、あなたがわたしのことを信じてくれるなら、花の神殿に行ってください。あなたは、希望のひとりです」
クラウディアの声は次第に細くなっていく。その姿も最初のうちははっきりとしていたのに、言葉が終わる頃には酷くぼやけてしまっていた。
「クラウディア様、そ、その、希望って――」
いったいどういうことですか、というマリーツァが言い終わる前に彼女の姿は溶け消えていった。無音になったかと思えば、遠くからなにかの音が聞こえてくる。だんだんと色彩を失っていく、夢の世界。ひらひらと剥がれ落ちていく空に、崩れていく大地。この声は、毎朝聞いている声。現実がゆっくりとマリーツァを包み込んでいく。
そして、マリーツァは目を覚ました。彼女の心に大きな疑問符と、底知れぬ不安を残して。