9 澱む川のほとりで(最終回)
豊平川に鮭が遡上してきた。
かつて水質が悪化し鮭がいなくなった川が今では見事に生まれ変わり、毎年2000尾ほどの鮭が戻ってくるようになった。
時として荒れ狂い、たくさんの人命を奪った歴史を持つ川。命を育む川。淀み流れる川。
河川敷の公園では家族連れで賑わっている。
あれから10年が過ぎた。
鍵澤は様々な仕事に着いたがどれも長続きせず、ひとり豊平川のほとりの安アパートに暮らしている。窓からは豊平川が望める。他は何のとりえもないワンルームの古いアパートだ。無職の今は日なが一日、川を見つめていることが多かった。
時々あの悪徳リフォーム営業の日々を思い出す。
今ではすっかり報道されることはなかったが、ネットを閲覧すると悪徳指定されたリフォーム会社への批難の書き込みを未だに目にする。中身を詳しく読もうという気はさらさら起きない。少し懐かしく感じるだけだった。
その日、鍵澤は就職情報を閲覧していた。ひとつの会社名に眼が止まった。
「瀬川まごころホーム株式会社」
リフォーム営業社員数名を募集していた。
3日後。鍵澤は瀬川まごころホームへとやって来た。
コンビニの跡地だろうか、こじんまりとはしているが広い駐車場を備えていて小さなショールームもある。二階建ての使いやすそうな事務所を構えていた。
応接室に通され、鍵澤は面接を待つことになった。
フロアは奇麗な絨毯が敷き詰められ、シンプルながらセンスの良い色合いだった。落ち着いた雰囲気が演出されている。客をもてなそうという意思が感じられた。
「鍵澤さん、お久しぶりです」
現れたのはやはり瀬川だった。かつては幼く見えた風貌が余分な肉がそげ落ち、年齢以上に荒々しく逞しさを感じさせるものに変化していた。それでいて表情は終始穏やかだった。
「やっぱり、瀬川。あんただったのか。いやあ驚いたな。見違えるようだね」
元気な姿に思わず目を細めた。
「ええまあ、私もいろいろと貴重な体験をさせていただきまして、少しは成長したかも知れません」
「そう、なんだ。あの、訊きにくいことだけど、いつ頃からこっちの方で」
「お陰様で刑期は5年に短縮になりまして。それから3年間、一から修業し直して、会社を立ち上げてからは2年ですかね」
「いやあ、立派だね。すごいよ。大したもんだ。昔から見どころがある奴だと思ってたけど。本当に素晴らしい」
「いえ。それもこれも鍵澤さんのおかげだと今でも感謝しております」
「いやいや、よしてくださいよ。お世辞でもそんなこと」自然と敬語で話していた。「あの頃のことを思い出すと、今でも切なくて苦しくなります。よくもあんな馬鹿なことを平気でしたもんだと。それに比べて、あなたは、あんな濡れ衣にも挫けずによくぞ」
言葉が詰まった。
瀬川は穏やかな表情を崩さなかった。
「これも勉強。いい経験でしたよ。周りにはだいぶ迷惑を掛けましたけどね。墓参りにはかかさず行っております。あの方には本当に申し訳ないことをしました」
屈託のない笑顔だった。
目の前の瀬川に、鍵澤は完膚なきまでに打ちのめされていた。だがそれは心地よい敗北だった。
鍵澤は入社が決まり、次の日から早速出社することになった。
事務所には13名の営業社員がいた。年格好は様々であり、見た感じの印象は海千山千の猛者揃いだった。
歳がいもなく緊張していた。朝一番に声を掛けてくれた同世代の先輩社員からは、恐ろしい鬼軍曹が朝の教練をするとのことだった。下手を打つと殺される、気をつけた方がいいと念を押された。
なあに、この手の会社のやり方は熟知しているさ。どうってことない。だとしたら結局、瀬川も上に立ってようやく理解したんだろうな。厳しい指導、管理がなければこの商売成り立たない。それは例えどんなに真っ当な真心営業の方針だとしてもだ。
客への真心は、厳しい指導からしか生まれない。
瀬川の考えは今どんなだろうかと思いを馳せた。
今度こそ真っ当な仕事を貫こうと決心している鍵澤には、むしろ望むところだった。
「さあ、鬼が来るぞ」
事務所内に緊張が走る。ぎいっとドアが開いた。
鍵澤は入って来た鬼軍曹を見て度肝を抜かれた。見る見るうちに顔がにやけて来るのが解った。
少し白髪と皺が増えた徳潟が、『新型精神注入棒』を持って社員の前に現れたのだ。
こんなところで再会するとは思ってもみなかった。瀬川の奴め、なぜ言わない。
少しの間、静寂が続いた。緊張が張りつめてピークとなった。
「いいか、真心が金が生むんだ」
徳潟の第一声だ。
『精神注入棒』がずばばんと乾いた音を発した。
真心優しさ思いやり、とにかく客をおもてなし。金が欲しけりゃ愛情注げ。
おもてなしのその一、優しく笑顔でごあいさつ
おもてなしのその二、断りに感謝、断りから始まる真の真心
おもてなしのその三、心配して、気遣って、思いやろう
おもてなしのその四、家の問題、優しく診断、ご提案
おもてなしのその五、安心、安全、明日のために、我が身を犠牲に真心相談
どこかで聞いたような標語を、何度も何度も繰り返し怒鳴りつけるような大声で叫ぶ、地獄の発声練習が始まった。
顔を真っ赤に染めて汗だくの徳潟が、鍵澤の方を一度だけ見てにかっと笑った。
すぐさま鬼の形相へと戻り「真心」の注入を開始した。
(了)