8 不運な事件
翌朝、事務所に営業社員が集まった。瀬川の姿はなかった。
それぞれが席に着くと、総務課社員が説明を始めた。
概要は、本社としてはどうにもならない。今月を持って札幌営業所を閉鎖する。札幌の社員は全員が解雇。わずかではあるが退職金が支給される。あとは各自で再就先を探してくれ。そして今回の摘発によるこれ以上の社員逮捕、拘留の可能性はほぼないだろうということが示唆された。事業の解散と、今現在拘留中の二人が全ての罪をかぶることで手打ちということのようだった。
「大川所長、徳潟部長、二人が全ての責任と罪を背負いました。本社の意向もありますが、とにかく一般営業社員からは絶対に逮捕者が出ないように最後まで踏ん張るとおっしゃってました。履歴書が真っ黒になるのは俺たちだけでたくさんだと」
本当か、嘘だろう、などと声が漏れた。
かまわず総務課社員はこれまで摘発されずになんとかやってこれたのは、実は徳潟のおかげだったのだと言った。
徳潟部長は、営業社員がやってはいけない悪事をして取ったアポの商談に常に一人で立ち向かった。まず初めに、醤油差しを使ったりのインチキを打ち消すことに全力で努めた。そこから客と打ち解け合い、自分の人間性を理解してもらい、アポの内容とは違っていても必要性のある工事だけを提案して納得の上で契約を交わしたのだという。悪徳リフォームを未然に防ぐためだ。こんな離れ業をこなせる人間はそうはいないだろう。決して後から横取りを画策した訳ではない。アポを取った営業社員を商談に連れていかないのも、同様に社員を守るためであり、全ての罪を被るためだったのだと。
営業社員たちは意外な事実に目を丸めて驚いた。
徳潟を陰で疑い卑しい噂を広めるなど、見当違いもはなはだしいことだったのだ。
徳潟はそれでも釈明をする替わりに、精神注入棒で社員の意識を鼓舞させようとした。どこまでも武骨な男なのだ。
残念ながら契約を結ぶクローザーは徳潟だけではない。他に数名いる。全ての契約から社員を守るまでには至らなかった。
こうなる事態を見越していたような徳潟の深い考えと潔さに、鍵澤は熱いものが込み上げるのを抑え切れなかった。
今回の悪徳リフォーム騒ぎによって不正の摘発が相次ぎ、業界の悪習が続々と明るみとなっていった。おかげで末端にまで浄化作用が浸透していった。摘発された業者始め、評判を落とした多くの中小リフォーム業者が業界から姿を消した。
確かにエスカレートした数々の不正は絶対に許されるものではない。被害者の中には経済的苦境、家庭崩壊や自殺にまで追い込まれたケースもあった。不正が蔓延した裏には法整備の不備もあった。社会問題に発展したことは当然の帰結だった。
鍵澤は、すでに実行犯である自分に語る資格などないのはわかっていたが、悪徳リフォーム騒ぎの顛末が大手ゼネコンなどによるもっと大掛かりな不正への矛先をかわすスケープゴートではなかったのかと考えていた。ゼネコンの現場からは離れてしまった今となっては判断のつかないことだった。ただ、かつて身を落とすほどの大規模な汚職に巻き込まれた経験とを比較してみれば、悪徳リフォームなど瑣末な悪戯に過ぎないという考えに捕らわれていた。ずる賢い言い訳を用意して自分を正当化したいだけに過ぎないのかもしれないが。
どちらにしろ、軽々しく自分本位の考えに陥いってしまい、正しい選択から逃げていた我が身に気付いた時、ただひたすら情けなかった。
そして最後まで瀬川は現れなかった。会社を見限ったにしても、挨拶もないというのは解せない。そんな男ではないはずだ。どうしたというのだろうか。鍵澤の他には瀬川のことを気にする者もいなかった。
彼の行方が知れ渡ったのは翌日になってからだった。
瀬川は殺人の容疑で現行犯逮捕され、拘留されていたのだ。
事の顛末はこうだった。
真心営業で足蹴く通い、ようやく契約にこぎつけた客からの連絡が瀬川の個人携帯に入った。事務所に家宅捜索が入った次の待機命令の日だ。相談がある、すぐに来て欲しいとのことだった。
何事かと出向いたところ、契約した老夫婦は狼狽していた。
5年間失踪していたという老夫婦の息子が突然舞い戻ったのだ。現在は碌でもない組織に身を置いていて、身なりや口調は一般人とかけ離れていたいわゆる半グレだ。両親が交わしたリフォーム契約のことを知り、昨今の悪徳業者に違いない。因縁をつけて金品を要求しようとの腹だ。
瀬川は、息子に責められ、なじられ、脅された。詐欺野郎、この始末をどうつけるんだとすごまれた。老夫婦はただおろおろするばかりだ。
とうとう、悪徳な詐欺呼ばわりされた瀬川が切れてしまった。
やくざ息子に手を出してしまったのだ。いや、どちらが先に手を出したのかは今となっては解らない。ともかく押し倒してしまった。運悪く相手は一段高くなった敷居の角に後頭部を強打して倒れた。意識不明となり、翌日死亡が確認された。瀬川は現行犯逮捕となった。
通常であれば業務上過失致死だろう。悪くとも執行猶予付きで収まる範疇だったはずだ。
周りの入れ知恵なのか、あるいはあんな息子でもただ一人の息子を亡くした無念からなのか、老夫婦の証言はいつの間にか瀬川にとって不利で攻撃的なものになっていった。
しかも、運の悪いことに勤務先は悪徳リフォーム騒ぎで家宅捜索中だ。
追い打ちをかけるようにさらなる不運が重なった。普段営業で持ち歩く小型バッグが駄目押しとなった。中に入っていたハンマー、ドライバー、プライヤーなどのちょっとした修理道具が凶器と見なされ、計画的犯行との見方を余儀なくされたのだった。まさしく信じられないほどの運の悪さだ。
事件は大々的に報道され、連日マスコミが報道合戦を繰り広げた。悪徳リフォーム騒動のクライマックスを飾る大事件となったのだ。
瀬川は一連の悪徳リフォーム騒動のスケープゴートにされたのかも知れない。誰よりもリフォーム業界の悪事に猛反対を貫いたあの男だったが。人生とは皮肉なものだ。
報道の熱が冷めると同時に悪徳リフォーム騒ぎも終焉を迎えた。熱しやすく冷めやすい大衆の興味はすぐに別の対象へと移っていった。
瀬川は一〇年の実刑判決を受けて札幌刑務所に収監されたと聞いた。なんとも言えない後味の悪さが残る事件だった。なぜ、よりによってあの瀬川がと、誰もが頭を抱える出来事だった。
徳潟の潔さを伝えることができなかったのも心残りだ。
ビートルホームの社員たちは会社を去り、それぞれの新たな道へと散っていった。
続く