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「深く澱む川」  作者: 狂死狼
3/9

3 瀬川の主張

 建築リフォームの飛び込み営業は単独、もしくは二人ペアで行われる。1日の受け持ち範囲を決められ、地図を片手に1軒1軒を訪問して歩く。基本は軒並み訪問といって1軒も飛ばすことなく叩いて歩くことが義務付けられている。「叩く」と言うのは業界用語で『飛込み訪問』のことを意味する。

 訪問活動の時間の区切りをラウンドと言い表し、午前中が1ラウンド、午後からだいたい3時までを2ラウンド、それからラストまでを3ラウンドと称していた。夜の訪問第4ラウンドを行う会社もある。1ラウンドがだいたい2時間程度。その間集中して40件前後を叩き、見込み客のアポイントを取り付けるのが仕事だ。1ラウンド終了ごとに会社や上司に連絡を入れ、状況を報告する義務がある。アポや商談がなければ一休みしてラウンド再開となる。

 新人のうちは1軒も飛ばさずに叩くのが普通なのだがやがて慣れて来ると、よさそうな家、肌に合う家を選んでしまい、軒並み訪問をせずに飛ばして歩くようになる者が多くなる。少しでも効率を上げて楽をしようと考えるふとどきな行いだ。

 実は並み訪問の方が絶対的に効率が良い。どこで良い客に当たるのかなんて誰にも解らないのだから。意外な客に当たって良い結果を得られるのが、実は軒並み訪問の良い点だった。理屈で解っていてもしなくなるのは厳しい反応の家を避けたいと思う、弱気から来る手抜きに過ぎない。

 用意するツールも多岐にわたる。その日配るチラシや資料、アプローチ用のファイルブック、雨具や着替えや弁当まで持ち歩くとかなりの大荷物になる。さらに点検や簡単な修理用の工具も持ち歩くとなると大変だ。大きくて重いカバンを肩からぶら下げて一日中歩き続けるのだ。靴の底があっという間にすり減り、足が棒のようになる。やがてマメが出来て歩くのさえ困難になる。

 雨の日も風の日も雪の日も、ひたすら叩いて歩くのだ。朝から晩まで1日100件150件とひたすら歩く。行く先々できつい断りや居留守、手ひどい嫌悪の眼で見られたり、謂れのない攻撃を受けながら叩くのだ。過酷な仕事だった。だからこそ売れさえすれば見返りも大きい。短期間でまとまった金を稼ぐ手段としてはかなり効率の良い商売だ。

 真っ当な営業方法で稼ぐ分には素晴らしい職業とも言えた。

 アポさえ取れば後は選手交代だ。多くの場合(望めば自分で契約までを行うことも出来るが)計測、見積り、商談、契約までをクローザーと呼ばれる別の者が纏めるのだ。アポインターとクローザーというそれぞれの分業制であることがこの業界の特徴であり、ある意味、誰にでも即日営業が可能だという安直さを生み出している。

 ただし、アポを取るだけといっても生易しいものではない。困難さや過酷さが付きまとう。耐えかねて辞めていく者が後を絶たないのも事実だ。

 売らせるための営業指導がエスカレートすると暴力的な責めを受け、精神的な苦痛を強いられる。その上、拘束時間も並み外れて超過し、休みもほとんどなくなってしまう。典型的なブラック企業となってゆくのだ。入社人数も多いが退職者数はさらに多くなり、慢性的な人手不足となる。

 このような下地が業界を覆い尽くす闇となり、良からぬ悪事を考えつき、実践する輩の温床ともなっていった。

 いつの頃からか痴呆老人や障害者、識弱者などを狙った悪質な営業方法が蔓延するようになった。見てもいないのに、すぐにも柱が腐って家が倒れるなどと騙し、必要のない高額な工事の契約を迫る。家の傷みを勝手に自作自演したりあることないことを吹き込み、客の心理を逆手に取ってその気にさせる。そのような悪事も慢性化すると、いつしか罪の意識はすっかり消え去ってしまう。

 次第に真面目な社員までをも悪事へと引きこんでしまい、いつの間にか正しい営業戦略であるかのような錯覚を起こし、やらなければ損だという風潮になる。

 やがて真っ当ではない営業方針が社内に行き渡り、幅を利かせるようになっていった。

 うあがて被害届がうなぎ上りに増大していった。当局がいつまでも黙って見過ごすはずはなかった。


「しつこいわあ。もう来ないで」

「奥さん、そんな嫌わないでくださいよ」

「いいから帰って。警察呼ぶわよ」

「あーもう。せっかく人が親切に言ってんのに。いいわもう」

 いかにも怪しげなやり取りが向かう前方の家から聞こえて来た。はじき出されるように赤いジャンパーの男が出て来た。目立つ真っ赤な制服は「マイマイハウジング」の社員だ。この界隈ではよく鉢合わせになり、商談でもぶつかることが多かった。その男は鍵澤と瀬川の姿を見つけると、舌打ちをして逃げるように反対方向へと去っていった。

 男が追い出された家を瀬川が叩いた。

「こんにちわ清水さん。ビートルホームの瀬川です」

 30代後半くらいの薄化粧で身なりを整えた女性が出て来た。けげんな表情だ。

「どちら様ですか」

「奥様、相変わらずお奇麗ですねえ。瀬川です」

「あらあ、この間のリフォームの人、よく言うわ。お世辞が上手いわねえ」

「いえ。お世辞言うと口が曲がるので言わないようにしてます。あ、やばい曲がっちゃいました」

 瀬川は唇の端に指を入れて引っ張った。

「あはは。ウケるわあ。今日はどうしたの」

 まず、つかみはばっちりだ。女性は急に表情を崩してにっこりだ。鍵澤は感心しながら見ていた。営業手ほどきをしたのは鍵澤だが、瀬川はめきめきと腕を上げていた。

「今日は一応ですが、今度の展示会のお知らせを持ってまいりました。ただ、こちらでは必要なさそうですね。またおととい来ますね」

「あ、せっかくだからちょっとガスコンロの火のつき具合が悪いの診てくれる。解るかしらね」

「ああいいですよ。多分診ればわかると思います。ちょっと失礼します」

「どうぞどうぞ」

 奥さんは瀬川を招き入れた。

 瀬川の後について鍵澤も靴を脱いで家の中に入った。鍵澤は小声で床下、床下と瀬川を突ついた。

 台所へと進むと、きれいに整理整頓されたピカピカのシステムキッチンがあった。

「ずいぶんと奇麗に使われてますね」

「いやあ恥ずかしいわ」

 褒めちぎる基本もばっちりだ。

 瀬川はガスコンロのスイッチを捻った。一度では着火しなかったが、三回目でようやく着火した。

「どう、もう寿命かしら。古いしねえ。キッチンごと交換を考えようかしら」

「あ、いいですよ。まだそんなことはしない方が。まだまだ使えますから」

 鍵澤は背中をさりげなく叩いた。馬鹿なことを言うな、のつもりだ。

「もう少し様子見て、最悪でもガスコンロだけ修理か交換でいいと思いますよ。

「あらそう。でも、せっかくだからカタログくらい見せてよ」

「見たら欲しくなりますよ。まだこの台所はびしっとしてますからこれから一〇年は使えます。無駄使いはやめておきましょう」

「そうなの。珍しい営業さんだよね。商売っ気がないと言うか、なんと言うか」

 鍵澤がうんうんと頷きながら瀬川の背中を突ついている。

「本当に必要な時に必要なものだけをご提案しますので、その時はよろしくお願いします」

「ふーん。欲がないわね。でも信頼出来るわあ。なにかあったらお願いするわね」

「ええ、お任せ下さい」

「それとね。うーん、どうしようかな。言おうかな」

「なんですか」

「ついさっき来た嫌な感じの営業さんがね、うちの床下腐ってるかも知れないって言うのよ。外の基礎コンクリに白い粉みたいなの見つけて白華現象がどうしたとかって。このままだと大変なことになるから床下診断してあげますよって言うのよ。変だなって思って追い返しちゃったけどね。どう思う」

「はい。白華現象ていうのは、コンクリートの中に溶けてる成分が大気中の二酸化炭素とかと結合して表面に白く出てくる現象です。まれに内部の水漏れによって引き起こされる場合があります。昔のタイルのお風呂ならたまにありますね。でも、今のユニットバスなら全く心配ありません。ここのお風呂はタイルのお風呂ですか」

 ずいぶん勉強してるな。鍵山は感心した。

「いいえ、今風のシステムバスっていうの。タイルじゃないわね」

「ああ、だったら何も心配ありません。ようするに風があたればコンクリートに白い粉が吹くんですよ。当り前の現象ですから」

 おいおい、それじゃ商売にならんぞ。何を考えてるんだ。

「あらそうなの。良かった訊いてみて。でもちょっと心配だから床下の様子見てくれる。お金かかってもいいから」

「ええ、お安いご用です。お代は頂きません」

 瀬川は台所の床の点検口を探した。テーブルの下にあった。ふたを開けてみた。

 鍵澤は床下診断という絶好のアポ取りチャンスに心を躍らせた。よしよし、いいぞ。ポケットの中のしょう油差しを確認した。これは絶対にアポになる。いやアポにする。アポォアポォだ。思わずジャイアント馬場のモノマネが出そうになった。

「ああ、瀬川君。床下なら僕が長年経験してるから得意分野だよ。替わりに診てきてあげるよ」

 しらじらしく瀬川に投げかけて床下診断の準備に入ろうとした。

(床下には金が落ちている。もぐれもぐれ、とにかくもぐれ)

「いえ、いいです。自分が見ますから。先輩は待ってて下さい」

 鍵澤はぽかんと口を開けて手を止めた。呆れた。馬鹿者め。また徳潟に殺されるぞ。

 瀬川は点検口から顔を覗かせて懐中電灯で床下を照らした。

「ああ、これは大丈夫。健康過ぎるほどの床下です。全く問題ありません」

 顔を上げると瀬川はにっこりとほほ笑んだ。最高の笑顔を見せた。実に良心的だった。

 問題は良心的過ぎることだった。


 清水家を出たあと、先を歩いてゆく瀬川においおいと鍵澤は声を掛けて呼びとめた。

「馬鹿じゃねえの。あそこまで行ってなんで売り込まねえんだよ。奥さんだってキッチンやりたがってたじゃねえか。中途半端に床下覗いて終わりって何考えてんだ。良心的なのは十分伝わったけどな」

「なら良いじゃないですか。どう見ても床下はからっからに乾燥してて全然問題無い状態だったんだし」

「とはいってもな、奥の方まで見たら何かあるかもしれねえじゃねえか」

「台所からは水周り付近がほとんど見渡せました。水周りに異常がない限りくまなく見ても同じじゃないですか」

「お前は、本当に売る気ないのか」

「いえ、売る気は誰にも負けない気持ちを持ってます。でも、必要のないものを売る気はありません。お客様が喜んでくれないなら意味がありません。僕はお客様に真心と安心を売りたいんです。インチキではその真逆ですから」

「おま、ちょ、本気かそれ。で、売れなかったらどうすんだよ」

「先輩。家って、年数が経てば傷みますよね」

「ああ、もちろん」

「じゃあその時は直す必要がありますよね」

「そうだな」

「そういう家ってたくさんあるんじゃないですか。世の中にこんなにいっぱい家があるんだから」

「そりゃそうだ」

「じゃあ、わざわざ何ともない家に必要ない工事を売るとか、おかしいじゃないですか」

「いや、解るよ。でもな、工事が必要な家はなかなか契約取れないって」

「それは真心が足りないからですよ。お客様はどうせなら真心のある会社、良心的な営業に大事な家を直して欲しい、任せたい、そう考えてると思いませんか」

「そうかも知れない。だけど、そんなのは理想だ。理想じゃ現実に食ってけないだろうが」

「インチキで売っても、それは泥棒するのと同じでしょ。泥棒して食っても幸せにはなれません。餓死した方がまだ幸せですって」

「あちゃあ。良く言うよこの人は。じゃあ餓死しろよ。死ねばいいよ。もう知らん」

 鍵澤は天を仰いで大きくため息をついた。




                続く




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