04 看病
木を削ったへらのようなもので口に運ばれた青黒いものは、匂いよりももっとひどい味がした。
一口含んで何とか耐えて飲み下だした大国主は、口が開けるほど気力が戻った後に、こう言った。
「ミヤコ…、これは、死ぬほどまずいぞ」
「死ぬわけがあるまい。身体に良いものしか入れていない。食えば身体の足しになる」
変わらず、構わない身なりの女は平然と言い返した。
ずたぼろで手足がむき出しの衣、もつれた枯れ葉のついた髪。さすがに水を浴びたらしく、汚れは小ギレイにされてはいたが、女の姿を持つにもかかわらず、基本的にこのバケモノは自分がどう見えるかには関心がないらしい。
整った顔立ちだけを見る分には『もったいない』と思わざるを得ないのだが。
熱が下がったばかりで、ナイキは弱っていた。
ミヤコが戻っていくらもたたぬうちに、意識が混濁したらしい。
意識がない間にミヤコは幾度も『気』をそそいでくれたようだが、寒かったり熱かったりした感覚的な記憶以外に、その間のことはナイキはほとんど覚えていない。
前に気づいた時は、からさらに二日ほどたっているらしかった。
ナイキは自分で水を飲むこともできず、まごまごしているうちにぎょっとしたことに、ミヤコが口移しで飲ませてくれた。
「身体がもとに『戻る』ために熱を出したのだ。動かなければ、じきに骨はつく」
口をぬぐいながら、ミヤコはそう言った。
身体が硬直してしまったことを悟られぬように、ナイキはからからになっていた喉と口をゆっくりとうるおした。
「動けるようになるまでは、どのくらいかかると思う」
「さてな。そのものの身体の力によるが、おまえは素戔鳴の血筋だ。じきにその程度までは回復しようよ」
そして、なにやら青臭い匂いをさせて、どろどろとしたものを作ってくれた。
ナイキは顔を背け、ようやく持ち上がった手で遮った。
「もういい」
「食わんと身体が戻らんぞ」
「ならば、食えるものを作ってくれ」
「面倒な奴だな。どうしろと言う」
「何でもいい……肉でも菜でも。湯で煮てくれ。形がなくなるまで」
「わかった」
面倒そうに、それでもミヤコは縁の欠けた土器にぽんぽんとそこらにあるものを放り込み始めた。
どうせ、今の身体の状態ならばよほど水に近くしない限り、喉を通りそうには思われなかった。形がなくなるほど煮てしまえば、何をとってきたのであろうとまず大丈夫だろう…、毒でさえなければ。
そう思い、口は挟まぬことにした。
見ていると、ミヤコが菜は手で適当に折り、取ってきたらしい山鳥は石刃も使わず器用に指先で肉を裂いていた。ナイキは呆れた。
「おまえ、普段は何を食っているのだ。…生肉か?」
調理する、という習慣がどうやらないらしい。ミヤコじろりと見た。
「そうだな。口にするならば、生の肉の方がまだよい」
「ミヤコは、食べないのか」
「こういったものは口にしない」
『霊』だからな。ナイキは胸の痛みを覚えつつも小さくため息をもらす。
「おまえは、本当にバケモノなのだな」
これはこの後、口癖となる。
人に近い姿かたちを持ちながら、あまりにも想像を絶して人間的な『常識』とは縁がない存在に対して。
もっとも、なんと評されたところで、ミヤコは一貫して気にした様子もなかった。
一々その言動は気にせぬことにしよう、と決めたナイキではあったが、ぐつぐつ煮立つ湯の中へ平気な顔をして手をつっこむ様子には絶句してしまった。
「おい…火傷、しないのか」
おそるおそる声をかけるが、ミヤコは振り向きもしない。
「この程度ならな。さすがに焼け石をつかみたいとは思わぬが」
「…………」
骨は皮を突きやぶってはいないと、ミヤコはうけあってくれたが、それ以外の傷から流れた血が固まり、ナイキの衣は使いものにならなくなっていた。
裂いてしまった衣を新しく調達しようとはミヤコは考えなかったらしく、裸のまま転がされて上から皮をかけられた。
排泄をするときには、皮ごと御屋の外まで引きずり出されるのである。小柄な体格にもかかわらず、女は軽々と大柄なナイキの身体をなるたけ動かさぬよう扱ってみせた。
バケモノと呼ぶのに相応しいだけの力を、その細い両腕は秘めていたのである。
一両日、バケモノに面倒を見られただけで、これは結構な極限状態かもしれないとナイキは思い始める。
素戔鳴神の血も引かぬ普通の人間であったら…、ヘタをすると死ぬぞ、これは。
「家のものに知らせてはくれぬか」
泣き言をもらすと、火の前で欠けた土器で湯を沸かしていた女は、不機嫌そうに振り向いた。
「オレの世話を見るのは面倒だろう? ならば、無理することはない」
「何だって、人というものはこんなに手間ヒマかかるんだ」
ぶつぶつと呟く。
普通なんだ、とナイキは考えたが、口にはださなかった。
ミヤコは眠らないことに、ナイキは気づいていた。
御屋は、純粋に怪我人を入れるためだけに、おおざっぱなものとはいえ組んだらしい。
そして、ミヤコは食べない。
身なりと様子から推して、衣がなくても凍えもしないらしい。
…衣食住ともに考えなくてすむバケモノと、人を一緒にするな! とも思う。
「なあ、ミヤコ」
「うるさい。動けるようになったらすぐさまほっぽり出してやるから、それまではつべこべ抜かさず転がってろ!」
ミヤコが声を上げた瞬間、土器が割れた。
火にかけられていた器には湯がなみなみと張られており、飛び散った湯煙と灰がむっと立ち込めた。
感じた熱さに、ナイキは反射的に身をよじった。
強靭な手が身体を引っ張り出すのがわかり、夜気がひんやりと頬に触れた。
ミヤコは危なげもなく男の身体を持ち上げたが、動かされたナイキは胸の痛みに顔をしかめた。
「湯があたったか?」
初めて案ずるような色を浮かべて、ミヤコが尋ねた。
「少しな」
「ならば水につけたほうがよかろう。動くな、運んでやる」
まったく…様にならん。
運んでもらいながら、ナイキは考えていた。
遠くはない場所に、小川がささやくような音を立てて流れており、ナイキはこの流れを以前に見た覚えがあることに気づく。
そっと下ろされた水は冷たいが、気持ちがよかった。
ミヤコは濡れるのを気にした様子もなく、灰と炭の汚れでさらにひどい有様になった衣をポイと脱ぎ捨てた。
夏も遠くはない時期とはいえ、日が暮れた後は冷え込んでおり、じきに水の冷たさが肌へとしみ込んできた。
「長く入っているべきではない。岸で火を起こす」
「気持ちがいいぞ、ミヤコ」
何日かぶりに水につかれて、ナイキはほっとした。身体が痛んだのは無論だが、手足だけでも濡れた布で拭いてやろうなどという気づかいは、バケモノに望むべくもなかったからである。
ミヤコはふんと鼻をならし、溺れぬようにナイキの身体を浅瀬まで引いてから、火を起こすために岸に上がった。
しばらくして、炎が燃え上がる様が見えた。火を起こす道具は何一つ持っていなかったはずだが、いずれバケモノ的な手法だろうと、ナイキは気にしないことにした。
火の傍らまで運ぶと、濡らさずに残した皮をミヤコはかけてくれた。さすがに身体が冷え、震えながらナイキはそれにありがたくくるまった。
ミヤコ自身は裸のまま横に腰を下ろした。
「寒くないのか」
「私か? 別に」
「バケモノだな、やはり」
ミヤコの身体は小柄で、痩せすぎに見えた。
わずかな胸のふくらみ以外は平らな腹も、よくしまった足や尻の線も、まるで少年のもののようだった。
ただ濡れて重たげに背にかかる髪は黒々とつややかであり、櫛を入れきちんと結い上げれば、たいていの女はうらやむほどに見事な結い髪になろうと思われた。
いや、髪ばかりではなく……。
「美しいな、ミヤコは」
目の前に落ちた髪の一房を手にとり、ナイキは呟いた。女は乾いた目で見返した。
「そうか」
「美しいと言われたことはないのか?」
「そんな風に言った奴もいたが。だからどうだと言う」
「美しいと言われ、ミヤコはうれしくないのか」
「醜いよりは美しいほうがいいに決まっている。だがこれは、私にとっては当たり前だ。相手を美しいと思うか醜いと思うかは、見る側の問題だ。おまえは私を美しいと思うのか?」
「ああ」
「なら、私はおまえにとっては美しいんだろう」
薄い笑みがミヤコの口許を飾ったが、それは酷薄そうに見えた。
「うちの一族の中では、私が最も見目がいいと思っていたのは、弟なんだが」
「弟…、ミヤコのか?」
人外のモノの一族とは、どんなものなのだろう。ナイキは考えてしまう。
「だが、男なのだろう」
「さて、あれを男といえるかどうか」
ミヤコは喉で笑った。
「女なのか? 妹だろう、それならば」
「女ともいえんだろうなぁ」
「どっちなんだ」
くっくっと楽しそうに笑いながら、ミヤコは言う。
「さぁな。それは私にとっても、大いなる問題だ」
「…どういう身内だ? それは」
バケモノには、まともな性別もないのか。何だか考えることが恐ろしくて、ナイキはそれ以上想像することはやめた。
「さぁな。私にもよくわからん!」
何がおかしいのか、ミヤコは腹を抱えてげらげら笑っていた。
考えてみれば、この女が笑うところを見るのは初めてかもしれん、とナイキは思う。
美しいが得体が知れない、人外の存在の不思議さをひと際強く感じる。
これはいったい、何なのだ?
「オレが…以前、おまえと同じくらいに美しいと思った女が、一人だけいた」
本当は、こんな話を始めるつもりはなかった。
だがこの時、この人外の女に聞いてもらうことが、いつまでも心の棘として残っているあの女の話をするには、相応しいのかもしれないとも思われた。
最後まで心かよわせることのなかった女の話を…、終わらせる為には。
「女はヤガミ、と呼ばれていた。ヤガミヒメ…オレの、最初の妻だった女だ。この根のクニ、いや大八島西方のクニグニでは、ならぶものなしとまで言われた美しい女だった。オレも…若かったからな。あの女の姿を最初に目にした時には、こんな美しい女がいるものかと…、まるで女神のようだとも思った」
ミヤコは口を挟まない。
そのまなざしは優しくもないかわり、突き放してもいなかった。
「オレは当時、異母の兄弟たちと対立していて…、はっきり言えば憎みあっていた。異母兄たちも評判の美女を手に入れようと、競って求婚しており、オレも…ヤガミに求婚したわけだが」
ナイキと呼ばれていた愚かで生意気な若造の、その若き日に起こった人生の『奇跡』とも感じられた瞬間を、その時の想いとともに大国主は思い出す。
「天にも昇る心地、とでも言うんだろうな。オレを、選ぶとは、求婚したオレ自身思ってはいなかった。ヤガミは、オレに嫁ぐと言った。そして、オレたちは夫婦になり…」
それなりに、うまくいっていると思っていた。
だが、思いは通じてはいなかったのだ。
「それからどうした?」
思いがけずに、ミヤコが静かに聞いた。
こんな話がはたして人外の存在にとっては興味のあるものなのか、ナイキにはわからなかったのだが。
「ヤガミは、オレのことを好いて選んだわけではなかったんだ。オレは当時、他の身内すべてとほぼ対立していた。前の国主の親父とも、うまくいってはいなかった。あの女は国主…、つまりオレの親父に恨みを持っていたのだ」
『私、うまくあなたと異母兄さまたちを諍わせましたでしょう?』
最後に、細い声でささやいた、病みやつれた女の言葉が忘れられない。
『国主のお血筋はあなた一人を残して、ほぼ絶えました。わたくしの望みは、国主の血筋が絶えるのを見届けることでしたのに…、残念ですわ』
ただ、目だけが憑かれたように輝いていた。かつては美しくて静かだった面に、赤裸々な感情を浮かべて、血を吐くように妻だった女は、心中に澱ませていた毒を最後に吐いた。
『わたくしの父も兄も、あなたのお父様に殺されました。ヤガミの里、わたくしのクニもうありません。…国主の血筋など、呪われればいい!』
「あの女は、親父の血を滅ぼしたいばかりに、それをかなえるのにもっとも適した立場にいた男…つまり、オレを選んだだけだった。おれは結局、異母兄たちをほぼみな殺しにしてしまった。ヤガミにそそのかされたつもりはないのだが…」
「その女、死んだのか」
「ああ。最後の床で、オレに心に秘して言わなかった言葉を、全部吐きつけていった。オレは…あの女を、どう思うべきだった? オレたちはうまくやってきたと、ずっと信じていたものを。オレは裏切られたのか? これは、裏切られたと思うべきなのか? だがな、今でもオレときたら」
滑稽なほどに、想いは伝わらないのだと、これほどあからさまに見せつけられても、それでもなお。
「まだ、思っている。なぜ、オレの子を生み、残してはくれなかったのだ、ヤガミ、と」
せめてその血を後に伝えるものを、なぜ、残していってはくれなかった。
あの女を失った喪失感とともに、まだその想いだけは残っている。
「その女にそう言ったか?」
自らの過去の思いに捕らわれていたナイキは、はっきりとした言葉に目の前の女に注意を戻した。
ミヤコはもう一度、繰り返した。
「その女に、一度でもちゃんとそう言ってやったのかと聞いている。美しいと思い、必要としていると。どれほど自分の子を生んで欲しいと思っているか。口に出してその女に伝えようとしたことがあるのか?」
ナイキは驚いた。
「そんなことは、わざわざ口に出さなくとも、わかっていることだろう?」
「おまえは、バカか? 言葉に出さずとも、想いだけでなんでも伝わるとその年になってもまだ思っているわけか? 馬鹿でなければ不精ものだな。そんなことをしているから、死んでしまった女に対していつまででも女々しく悔いが残るんだ。つまりは、何か他にやりようがあったのではないかと、そう考えているからだろう?」
ミヤコの手厳しい言葉は、何故かこの女がこれまで口にした言葉の中では、一番優しく響いた。
このバケモノが話を聞いて、自分の身になって思ってくれていると、はっきりと感じられたからだ。
ナイキは自分の見方が、どれほど若い頃の…「傷つけられた」という思いに偏ったものであったのかを、はっきりと自覚させられた。
「『オレの子を産んでくれ!』とヤガミにすがりつけば、何かかわったというのか」
「知らん。そんなのはお前とその女の問題だ」
違いない。ナイキは痛む胸に負担をかけぬよう、こみ上げる自嘲の笑いを押し殺した。
あの生意気な若造には、とてもそんな真似はできなかっただろうと、自分でもよくわかっていた。
心の中の棘がなくなりはしないながらも、触れるたびに感じてきた痛みが、和らいて流れだすように思われた。
これ以上、オレはあの女の影を想うまい。そう、心に決める。
亡き妻は、本当に美しかったと。それだけ覚えていればいい。
「オレはバカだな、ミヤコ」
そんなことを思いきるのに、これだけ時間がかかってしまった。
そう思って言うと、ミヤコは鼻を鳴らした。
「まったくだ」
「ミヤコは賢い」
「あたりまえだ」
女はエラそうに口にした。
かぶった皮の間からするりと手が差し入れられてきたので、また『気』を注いでくれるつもりかと思ったが、ミヤコはそのまま上から肩を押さえつけてきた。
「おい」
小柄な女に伸しかかられて、ナイキは…閉口した。
「何を考えている」
「動くなよ。まだアバラがきちんとついてはいないから、骨が刺さるぞ」
「身動きのとれない相手に、何をする!」
「おまえの言うところの『美女』が慰めてやろうというんじゃないか…、何の文句がある」
間近に降りてきたミヤコの面は確かに美しいが、獣めいて獰猛に見えた。
長い髪が、濡れた感触でかぶさってくる。
ナイキは身動きもできず、女の目を見ていた。
黒い、普通の女の目が、その奥に金の光を宿して、ゆっくりとその輝きが圧倒的なまでに強まっていく様を見続けた。
炎だ。
ミヤコと名乗る強大な『霊』の本質が、これほど間近に触れたことでナイキにも関知できた。
この女は、炎でできている。
あまりにも膨大な力ゆえに、周り中を焼け焦がすであろう、炎。
紅い唇に刻まれるのは、肉を喰らう獣が獲物に牙をたてる前に浮かべるであろう、笑み。
これまでとはくらべものにならない圧倒的な『気』が、洪水のように流し込まれた。
ナイキは女の炎が、自分の存在を飲みつくすのを感じた。